日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 484番 主われを愛す 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「心の支えがあるか」 テサロニケの信徒への手紙一1章1~10節 「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来たるべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」 今日の聖書の箇所は、使徒パウロのテサロニケの信徒への手紙一1章1節から10節までです。この手紙はパウロがキリスト教の伝道者としての生涯の最も早い時期に書いたものです。 この手紙の趣旨は、はっきりしています。パウロにとってテサロニケ教会は、いわば自分自身にとっての命の恩人たちであり、思い返すたびに感謝の思いを抱いていたので、その思いを言葉にしてテサロニケ教会の人々になんとかして伝えようとしている、ということです。 言い方を換えれば、テサロニケ教会の存在は伝道者パウロにとっての「心の支え」だったとも言えます。その教会を思い起こすたびに感謝があふれてくるというのですから。人生の中でそういう教会に出会えた人は幸いです。 自分の「心の支え」が教会でなければならないことはありません。家族や友人が「心の支え」であるという方もおられるでしょうし、学校や会社がそうだという方も、動物や自然がそうだという方も、哲学や趣味がそうだという方もおられるでしょう。しかし、教会の存在が「心の支え」である方々もおられる、というくらいで止めておきます。人の考え方や感じ方は自由ですので。 キリスト者の「心の支え」が「神」であり「イエス・キリスト」であることは、そうだと言われればそのとおりです。しかしまた、地上に現実に存在する/した特定の教会と、その教会に集うキリスト者たちの存在が「心の支え」であると言ってはならないわけではありません。使徒信条の「われは教会を信ず」という信仰箇条を思い起こすべきです。しょせん教会は人間の集まりにすぎない。人間に頼ると裏切られる。神とキリストだけを頼りにするのがキリスト者であって、教会は信仰の対象ではないという考えは、退けられるべきです。 ただし、いま申し上げたことは教会によるところがあります。パウロにしても、すべての教会に対して同じことを言えたわけではありません。きわめて厳しい言葉で非難しなければならない教会がパウロにもありました。たとえばコリ