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大いなる喜び(2023年11月26日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 386番 人は畑をよく耕し 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「大いなる喜び」 コヘレトの言葉2章1~11節、24~26節 秋場治憲 「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは神の手からいただくもの。」  前回の宣教の後少ししてから、ある方から質問がありました。ヨブは苦難の中で仲保者を求めた、しかもこの仲保者が自分の味方として必ず地の上に立たれるということだったけれども、このことはヨブ記のどこに言及されているのか宣教要旨には記載されておらず、見つけることが出来ないので教えてほしいというものでした。新共同訳の言葉とは少しニュアンスが違いますので、それで見つけることが出来なかったのだと思います。これはヨブ記19:25~27に記載されている言葉です。口語訳の方が分かりやすいと思いますので、参考までにこの個所の口語訳を掲載しておきます。後でご自身で比較をしてみてください。    25節 わたしは知る      わたしをあがなう者はいきておられる、      後の日に彼は必ず地の上に立たれる。 26節 私の皮がこのように滅ぼされたのち、     わたしは肉を離れて神を見るであろう。 27節 しかもわたしの味方として見るであろう。     わたしの見る者はこれ以外のものではない。     わたしの心はこれを望んでこがれる。   ヨブは激しい苦難の中で、神と自分の間に立ってくれる仲保者を求め、しかも自分の味方として立って下さる方を待ち望んでいる。友人たちは因果応報の地番に立ち、ヨブがこのような悲惨な目にあっているのはヨブが罪を犯したからだと言って責め立てる。ヨブはそんなことは自分もよく承知していると言う。しかしヨブを打つ手は止むことがない。ヨブはこの悲惨の中で悲鳴をあげながら、彼はこの自分をあがなう者が、地の上に立たれることを切望しているのです。ここでヨブは因果応報の世界から、福音の世界へ突き抜けようとして、その出口を望み見ている。そしてよきおとずれを持ってこられる方を、待ち焦がれているのです。私たちは既にその方を知っています。聖書を通し既にこの私たちを贖って

悩みも多いが楽しく生きる(2023年11月19日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 412番 昔 主イエスの 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悩みも多いが楽しく生きる」 ローマの信徒への手紙8章18~30節 関口 康 「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(18節)とあります。「現在の苦しみ」の「現在」は、時間的な「今」を指しているだけではありません。神が天地万物を創造された日から、真の救い主イエス・キリストが再臨されて、世界が完成する終末までのすべての時間を指して「現在」とパウロは記しています。 しかし、今のわたしたちも、いまだイエス・キリストの再臨の日を迎えていませんので、二千年前のパウロの「現在」と同じ意味の「現在」の「苦しみ」を、わたしたちも味わっていると言えます。その「現在の苦しみ」が「取るに足りない」すなわち「大したことはない」と思える日が来るというのが、今日の箇所の趣旨です。しかし、「現在の苦しみ」が「取るに足りない」と言われると、将来は苦しくなくなるという意味なのか、それとも、もっと苦しくなるという意味なのかと考えてしまいます。 結論を言えば、両方の意味です。今より負担が大きくなり、もっと苦しくなります。しかし、それに耐えられるだけの意味や楽しみがあることを理解させていただけるので、「苦しいけれども苦しくない」という境地に達しうるという線で理解して大丈夫です。「悩みも多いが楽しく生きられるようになる」という線です。 「被造物は虚無に服しています」(20節)は、旧約聖書のコヘレトの言葉に通じます。口語訳聖書で「空の空、空の空、一切は空である」、新共同訳聖書で「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と記されているあの書物です。私が愛用するローマ書の註解書(著者レカーカーカー)に「ローマ8章20節はコヘレトの言葉の註解である」と記されていました。 「被造物」は「被選挙権」などで用いるのと同じ「被」を用いて「神によって造られたもの(物・者)」を表現しますので、当然「人間」を含みます。

新しき生(2023年11月12日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 532番 やすかれ、わが心よ  礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「新しき生」 ローマの信徒への手紙8章1~17節 関口 康 「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます。」 今日の箇所は先週の続きです。先週の箇所はローマの信徒への手紙7章7節から25節まででした。しかし、教会創立71周年記念礼拝でしたので、その主旨に基づいてお話しする部分が必要でしたので、聖書の内容について詳しくお話しすることができませんでした。 かろうじてお話しできたのは、ローマの信徒への手紙の7章から8章までをわたしたちが読むときの大前提が違っている場合がある、ということでした。2点挙げました。 ひとつは、7章だけで45回出てくる「わたし」とはだれのことか。もしパウロだけを指しているとしたら、この箇所をパウロの自叙伝として読まなければならないことになるが、それでよいか。 ふたつめは、ここに描かれている「わたし」の葛藤は、キリスト教改宗前の人が味わっていた過去の葛藤であって、キリスト教への改宗後はもはや生じることがありえないものなのか。 どちらも「違う」と私は申しました。しかもそれは聖書解釈の問題として考えるだけでなく、わたしたち自身の現実から考えるほうが理解しやすいとも申しました。わたしたちのうち誰が、教会に通いはじめ、やがて洗礼を受けてキリスト者になったので自分の罪についての悩みも苦しみもなくなったと言えるでしょうか。「そんな人はいない」と言いたいわけですが、反論があるかもしれません。「罪についての葛藤は私にはありません」と。 しかし、もしそういう人が現われたら、多くの人が困ります。「私はキリスト者だと自覚してきたつもりだが、罪の葛藤が無くなったことはない。そうでない人がいるというなら、私の信仰が足りないという意味なのか」と苦しむ人が続出するでしょう。この箇所はキリスト教改宗前のユダヤ教徒だった頃のパウロの葛藤を描いたものではないとはっきり言うことによって、多くのキリスト者が救われると私は申し上げたいのです。 キリスト者でない人がキリスト者になることだけを「救い」と呼ぶのは狭すぎますし、事実でもありません。「教会」が天国の楽園の

葛藤と隘路からの救い(2023年11月5日 昭島教会創立71周年記念礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 510番 主よ終わりまで 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード  「葛藤と隘路からの救い」 ローマの信徒への手紙7章7~25節 関口 康 「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」 今日の礼拝は昭島教会創立71周年記念礼拝です。長い間、献身的に教会を支えて来られた皆さまに心からお祝い申し上げます。 この喜ばしい記念礼拝の日にふさわしい宣教の言葉を述べるのは重い宿題です。私がその任を担うことがふさわしいと思えません。2018年4月から鈴木正三先生の後の副牧師になりました。そして2020年4月から石川献之助先生の後の主任牧師になるように言われました。2020年4月は、日本政府から「緊急事態宣言」が出され、当教会も同年4月から2か月間、各自自宅礼拝としました。また、教会学校と木曜日の聖書に学び祈る会は3か月休会しました。そのときから3年半しか経っていません。 3年間、教会から以前のような交わりが失われました。なんとかしなくてはと、苦肉の策でインターネットを利用することを役員会で決めて実行したら「インターネットに特化した牧師」という異名をいただきました。申し訳ないほど「私」の話が多くなってしまうのは、3年間、家庭訪問すらできず、皆さんに近づくことがきわめて困難で、皆さんのことがいまだにほとんど分からないままだからです。 日本語版がみすず書房から1991年に出版されたアメリカの宗教社会学者ロバート・ベラ―(1927~2013年)の『心の習慣 アメリカ個人主義のゆくえ』で著者ベラーが《記憶の共同体》という言葉を用いたのを受けて、日本のキリスト教界でも特に2000年代にこの言葉を用いて盛んに議論されていたことを思い起こします。この言葉の用い方としては、個人主義、とりわけミーイズム(自己中心主義)に抵抗する仕方で「教会は《記憶の共同体》であるべきだ」というわけです。 なぜ今その話をするのかといえば、昭島教会の現在の主任牧師は、残念なことに《記憶の共同体》としての昭島教会の皆さんとの交わりの記憶を共有していないし、共有することがきわめて困難な状況が続いていると申し上げたいからで