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10月, 2021の投稿を表示しています

救いの約束(2021年10月31日 永眠者記念礼拝 宗教改革記念礼拝)

讃美歌21 510番 主よ、終わりまで 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3592号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「救いの約束」 創世記45章1~8節 「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」 今日の礼拝は「永眠者記念礼拝」です。同時に「宗教改革記念礼拝」でもあります。さらに来週11月7日(日)は「昭島教会創立69周年記念礼拝」です。この3つの「記念礼拝」は、昭島教会で毎年この時期に行っていますので、ぜひご予定ください。 その中で「永眠者記念礼拝」は世界のキリスト教会が重んじ、日本キリスト教団も準じている教会暦にある「聖徒の日(永眠者記念日)」が11月1日で、「記念礼拝」は11月の第1日曜日に行うことになっているので、教会暦どおりなら今年は11月7日(日)です。 しかし、昭島教会はいつからそうするようになったかは私には分かりませんが、その教会暦の「聖徒の日(永眠者記念日)」よりも1週前に永眠者記念礼拝を行うことにしています。教会暦はわたしたちが絶対守らなければならないものではありません。あくまでも参考にするだけです。 1週ずらして行う理由は2つあると聞いています。ひとつは、永眠者記念礼拝の午後に墓前礼拝を行いますが、昭島教会墓地の周囲一帯がキリスト教墓地で、他の教会の墓前礼拝と重なって混み合うケースがあるので、それを避けるため、という実際問題です。 もうひとつは、必ず11月の第1日曜日には昭島教会の創立記念礼拝を行うので永眠者記念礼拝と重ならないようにするためです。昭島教会は1952年11月2日に「日本基督教団昭和町伝道所」として伝道を開始しました。その日から数えて今年で69年になります。 3つの「記念日」はすべて日付が決まっています。早い順でいえば、10月31日が宗教改革記念日です。翌日の11月1日が聖徒の日です。その翌日の11月2日が昭島教会の創立記念日です。それぞれの「記念礼拝」は最も近い日曜日に行います。 説明に時間を割いているのは、3つの「記念日」は関係あると申し上げたいからで

水とぶどう酒(2021年10月24日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3591号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「水とぶどう酒」 ヨハネによる福音書2章1~11節 昭島教会 秋場治憲兄 「イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』」  今日の聖書箇所は主イエスが最初に行われた奇跡として、とても有名です。よきサマリア人の譬と同じように、知らない人はいないといっても過言ではないと思います。余りにも自明で、簡潔な物語として、さしたる感動もすることなく、私たちは足早にこの奇跡の横を走りぬけてしまうのではないでしょうか。今日はこの余りにも自明で、簡潔な奇跡の前で、じっくりと腰をおろし、この出来事に耳をすませてみたいと思います。  ヨハネ福音書を一章から読み始めてまず感じるのは、バプテスマのヨハネと主イエスの対比が色濃く出てきていることに気づかされます。ヨハネは「荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。 [1] 」ヨハネは荒れ野に出て行った。彼はらくだの毛衣を着て、腰に皮の帯を締めいなごと野密を食べ物としていた。ヨハネは律法に厳格に従い、禁欲的な生活をしていた。一方主イエスは弟子たちと婚礼に出席した。一方は人間の世界から出ていく。他方主イエスは入ってくる。バプテスマのヨハネは律法学者、ファリサイ人に対して「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。私は、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、 私の後から来られる方は、私よりも優れておられる。私はその履物をお脱がせする値打ちもない。 その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。 [2] 」と排他的ともいえる厳しさで迫る。これがヨハネにとって主の道を真っ直ぐにするということ。 [3] しかし、主イエスは彼らを排除していない。 三 章に入るとファリサイ派のニコデモ [4]

天国(2021年10月17日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 504番 主よ、み手もて 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3590号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「天国」 ヨハネの黙示録7章9~17節 関口 康 「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」 今日は新約聖書のヨハネの黙示録を開いています。旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合計66巻の最後の66番目の書物です。旧約と新約の書物の数は「さんく、にじゅうしち」と九九(くく)の語呂合わせで覚えると忘れません。 ヨハネの黙示録が書かれた時代的背景として考えられているのは西暦1世紀末、特に紀元81年から96年までローマ帝国がドミティアヌス皇帝によって支配されていたことと関係あるだろうということです。 ドミティアヌス皇帝は、ローマ帝国が支配する地域の至るところに自分の像を建てさせ、その像の前で自分に対する忠誠を誓わせた人です。ローマ皇帝を神として礼拝させる行為です。像を拝もうとしない人々は迫害し、殺害しました。そのような行為は偶像礼拝であるとみなして拒否するユダヤ人やキリスト者は、迫害と殺害の対象でした。 今のわたしたちにそのようなことはないと言い切れるかどうかは、考え方次第です。私自身は体験的には知らない世代ですが、80年前の大日本帝国の時代には、それときわめて近い、または同じと言いうる状況だったことを実際に体験なさった方々がおられるでしょう。 戦後はどうでしょうか。宮城遥拝をしない者は逮捕抑留されるという状況はなくなりました。しかし、違う形のもっと巧妙な方法による宗教抑制が今でも続いていると私は感じます。うまく説明できませんが、何かしら抑制をかけられている気がしてなりません。 日本のキリスト者人口が何十年も国民の1%を越えないことは、諸外国の教会の謎だそうです。以前もお話ししましたが、アメリカ人の宣教師から直接聞いたのは、日本でキリスト教を広めるために多くのアメリカ人の献金と人材を送ってきたのに一向に伸びない。同じだけのお金と人材をミャンマー伝道へと振り替えれば日本の教会の何十倍も多くの信徒を得られることが分かったの

教会と政治(2021年10月10日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 443番 冠も天の座も 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3589号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「教会と政治」 ローマの信徒への手紙13章1~10節 関口 康 「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」 今日の宣教題を「教会と政治」としたのは、今日の朗読箇所の最初に「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(1節)と記されている中の「上に立つ権威」は「国家」、あるいは一般社会的な意味での「政治的支配者」を指しているというのが、この箇所の伝統的な理解だからです。 続く箇所に「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう」(3節)とか、「権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです」(4節)とか「あなたがたが貢を納めているのもそのためです」(6節)とか、「貢を覚めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(7節)と記されています。 いま一気に言いました。これは武器で悪人を取り締まる警察の存在や、税金で社会を整備する国家や政治を指しているということが、少しあるいはかなり分かりにくい書き方ではありますが、たしかに記されているということを確認したいと願うからです。 分かりにくいと申し上げたひとつの理由は、「国家」や「政治」とはっきりとは記されていないからです。その代わりに「支配者」や「権威者」と記されています。しかし、分かりにくい理由はそれだけではありません。 もっと分かりにくいのは、この箇所で「支配者」ないし「権威者」と呼ばれている存在が「神に由来しない権威はない」とか「すべて神によって立てられたもの」(1節)であるとか「神の定め」(2節)であるとか、「権威者は神に仕える者」(4節、6節)であるとか記されて

信仰による生涯(2021年10月3日 主日礼拝)

台風16号通過後の青天(2021年10月2日) 字は関口牧師が書きました(2021年10月2日)   讃美歌21 458番 信仰こそ旅路を 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3588号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「信仰による生涯」 ヘブライ人への手紙11章13~16節 関口 康 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」 9月末をもって政府の緊急事態宣言が全面的に取り下げられ、すべて終わったかのような空気が蔓延している感があります。しかしそれこそ蔓延防止対策が必要ではないかとかえって警戒心を抱きながらの3日目を、私自身は迎えています。 もっとも私は、現時点においては、週に4日は電車やバスに長時間乗って学校で教える働きをさせていただいている関係上、首都圏の現状を肌感覚で知らずにはいないつもりです。 そのような中で、わたしたちの教会が、9月から礼拝堂での礼拝を再開し、みんなで集まることをしてきたのは良かったと私は考えています。礼拝出席者は以前と同じか、少し多くなってきているようにも感じます。 今教えている高校で一昨日したばかりの話ですが、「教会」はギリシア語で「エクレーシア」と言い、「集会」とか「集まり」という意味です。これは教科書の言葉です。さらに次のように書かれています。「個人の家や公共の建物、時には野外で、イエス・キリストの名のもとに集まり、祈りや礼拝がささげられ、継続的な集会を持っている共同体はすべて、礼拝堂があってもなくても教会と言います」(キリスト教学校教育同盟編『キリスト教入門』創元社、2015年、36ページ)。 この教科書の著者が強調しようとしている点は明白です。「教会」(エクレーシア)とは、人が集まることそれ自体であり、集会そのものであり、集まる人を指すのであって、建物を指すのではないということです。建物としての「礼拝堂」は英語でチャペル(chapel)と言うが、「教会」はチャーチ(church)と言う、という説明まであります。 わたしたち自身が判断