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6月, 2023の投稿を表示しています

わたしについてきなさい(2023年6月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 358番 小羊をばほめたたえよ 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「わたしについてきなさい」 ヨハネによる福音書15章1~17節 秋場治憲 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」 私たちは5月28日にペンテコステ、聖霊降臨節を記念する礼拝を持ちました。これからしばらく聖霊降臨節が続きます。いつまで続きますか、と質問してきた方がおられます。教会暦ではアドベントまで続きますが、実際は主イエスが再び来たりたもう日まで、つまり「かしこより来たりて  生けるものと死ねる者とをさばきたもう」再臨の時まで続きます。再臨というのは、読んで字のごとく「再び臨む」ということです。よみがえった主イエス・キリストは、40日にわたり弟子たちに現れ、天に上げられ、父なる神の右に今座し、聖霊を通して、今現在私たちを導いておられる。「かしこより」と訳されている言葉は、 inde というラテン語で「そこから」という副詞です。その直前にあるのは「全能の父なる神の右に座したまえり」という言葉です。「神の右」というのは、神の支配を意味します。「そこからきたりて (未来形) 、生けるものと、死ねるものとを裁きたまわん、我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、・・・と続きます。主が再び来たりたもう日まで、我は聖霊 (復活した主イエスの霊) の導きを信じ、聖なる公同の教会を信じ [1] 、聖徒の交わりを信じ、罪の赦しを信じ、体のよみがえりを信じ、永遠の命を信じて生きて参りますという信仰告白です。それぞれの詳細については今日の本題ではありませんので、別の機会に致します。キリスト教信仰における、現在という時の位置づけを理解していただければと思います。 主イエスが再び来たりたもう日まで、聖霊の時代が続きます。天にのぼり全能の父なる神の右に今現在座していたもう主イエス・キリストの支配のもとに私たちは日々歩んでいます。そのことを私たちに証しているのが聖霊です。だから聖霊について学ぶということは、とても大切なことなのです。 ペンテコステ礼拝において私たちは「神は愛である」という視点から聖霊の働きについて学びました。もうお忘れかもしれませんが、簡単に振り返りますと、唯...

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ...

喜びと真心をもって(2023年6月11日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌第2編 26番 ちいさなかごに 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「喜びと真心をもって」 使徒言行録2章43~47節 関口 康 「こうして、主は救われる人を日々仲間に加え一つにされたのである」 今日の聖書箇所は、先週の箇所の続きです。先週の箇所には、最初のペンテコステ礼拝で使徒ペトロが行った説教に多くの反応があり、その日に3千人ほどがキリスト教会の仲間に加わったことが記されていました。 もっとも、統計学的な見地から考えれば、最初のキリスト者人口は1千人ほどだっただろうというのが、 今年1月8日の説教 でご紹介した米国の宗教社会学者ロドニー・スターク教授(故人)の見解です(R. スターク『キリスト教とローマ帝国』新教出版社、2014年)。聖書の言葉を疑うような言い方はしたくありませんが、ひとつの参考意見です。 そして、今日の箇所に記されているのは最初のキリスト教会がどのような活動をしていたかについての比較的詳しい情報です。しかし、今日の箇所だけでなく4章32節以下にも同様の記事がありますので、両方を合わせて情報を整理することが肝要です。以下、箇条書きで整理します。 (1)最初のキリスト教会の人々は一人として持ち物を自分のものだと言う者は無く、すべてを共有していました(4章32節)。 (2)最初のキリスト教会の人々は、心も思いも一つにしていました(2章44節、4章32節)。 (3)最初のキリスト教会の中には自分の財産や持ち物、たとえば自分の土地や家や畑を売却して、教会に献金する人々までいました(2章45節、4章34節、4章37節)。 (4)その自分の不動産を売却した収益金は、教会の中の使徒職にある人々に預けられました(4章35節、4章37節)。 (5)使徒に預けられた献金は、教会内で必要に応じて分配されました(2章45節、4章35節)。 (6)その結果、最初のキリスト教会の中には貧しい人が一人もいませんでした(4章34節)。 (7)しかし、教会の仲間に加わった人々にとって、自分の不動産を売却することは義務ではありませんでした(5章4節)。 (8)さらに教会の中には、実際はすべてでなく一部だけ献金しながら、あたかも全財産を献げたかのように虚偽申告して自分の虚栄心を満たそうとする人々までいました...

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で...