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喜びと真心をもって(2023年6月11日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌第2編 26番 ちいさなかごに



「喜びと真心をもって」

使徒言行録2章43~47節

関口 康

「こうして、主は救われる人を日々仲間に加え一つにされたのである」

今日の聖書箇所は、先週の箇所の続きです。先週の箇所には、最初のペンテコステ礼拝で使徒ペトロが行った説教に多くの反応があり、その日に3千人ほどがキリスト教会の仲間に加わったことが記されていました。

もっとも、統計学的な見地から考えれば、最初のキリスト者人口は1千人ほどだっただろうというのが、今年1月8日の説教でご紹介した米国の宗教社会学者ロドニー・スターク教授(故人)の見解です(R. スターク『キリスト教とローマ帝国』新教出版社、2014年)。聖書の言葉を疑うような言い方はしたくありませんが、ひとつの参考意見です。

そして、今日の箇所に記されているのは最初のキリスト教会がどのような活動をしていたかについての比較的詳しい情報です。しかし、今日の箇所だけでなく4章32節以下にも同様の記事がありますので、両方を合わせて情報を整理することが肝要です。以下、箇条書きで整理します。

(1)最初のキリスト教会の人々は一人として持ち物を自分のものだと言う者は無く、すべてを共有していました(4章32節)。

(2)最初のキリスト教会の人々は、心も思いも一つにしていました(2章44節、4章32節)。

(3)最初のキリスト教会の中には自分の財産や持ち物、たとえば自分の土地や家や畑を売却して、教会に献金する人々までいました(2章45節、4章34節、4章37節)。

(4)その自分の不動産を売却した収益金は、教会の中の使徒職にある人々に預けられました(4章35節、4章37節)。

(5)使徒に預けられた献金は、教会内で必要に応じて分配されました(2章45節、4章35節)。

(6)その結果、最初のキリスト教会の中には貧しい人が一人もいませんでした(4章34節)。

(7)しかし、教会の仲間に加わった人々にとって、自分の不動産を売却することは義務ではありませんでした(5章4節)。

(8)さらに教会の中には、実際はすべてでなく一部だけ献金しながら、あたかも全財産を献げたかのように虚偽申告して自分の虚栄心を満たそうとする人々までいました(5章1節以下のアナニアとサフィラの例)。

(9)最初のキリスト教会の人々は、毎日エルサレム神殿の境内地で集会を開いて祈り、さらに家ごとに集まって「喜びと真心をもって」食事をしていました(2章46節)。

(10)そのような最初のキリスト教会の人々の様子を見ていた人々は、彼らに好意を寄せていました(2章47節)。

最初のキリスト教会の人々がこのようなことをしていた動機を想像するのは難しくありません。長い歴史と豊かな伝統を有するユダヤ人社会の中で、それまではだれも信じていなかった教えを受け入れ、新しい信仰共同体としての歩みを始めたばかりの人々は、爪弾きされる存在でした。仕事にありつくことすら、ままなりませんでした。その中で、とにかく互いに助け合って難局を乗り越えて行こうではないかという一心で、共に歩んでいたに違いありません。

しかし、その彼らにも、必ずしも賛成も同意もしてくれない家族や友人がいたでしょう。自分の不動産を売り払ってまで守るべき信仰なのかと周囲の人から問い詰められたに違いありません。けれども、物は考えようです。そもそも私有財産とは何なのかと根本から問い直すときがわたしたちにもあっていいでしょう。新しい信仰共同体に属する者たち同士が、金品を共有し合うほどまでに互いに助け合うことで、難局を乗り越えようとすることがあってもいいでしょう。

現代社会の只中でこのような話をしますと、たちまち非難の的になることは分かっています。しかし、大人も子どもたちも貧困にあえいでいるのに税金ばかり重くなっていく国の中に生きているわたしたちです。自分の子どもたちの教育費に苦しむ家庭も少なくありません。お金を何に使うかは各自に任されています。損得勘定だけで語ることはできません。

それと、これは比較的一般常識として広く知られていることですが、使徒言行録2章や4章に描かれた最初のキリスト教会の実践内容を指して「原始共産制」という名で呼ぶ人々がいます。現代の共産主義の方々にとって、どこまでが共通していて、どこからは違うのかをどのように理解しておられるかは私には分かりません。しかし、はっきりしているのは、最初のキリスト教会のあり方は、どこからどう見ても資本主義の原理とは正反対であるということです。

しかしまた、誤解を避ける必要を、いま私は感じています。最初のキリスト教会の実践内容において、私有財産の放棄そのものが目的でも義務でもなかったことは強調しなくてはなりません。比較対象として挙げうるのは、最初のキリスト教会が活動を始めたのと同じ時代のユダヤ教内部に存在した「クムラン教団」と呼ばれた人々です。彼らは私有財産を拒否しました。結婚することも許されませんでした。ルールを破った人は罰を受けました。

しかし、最初のキリスト教会のあり方は、クムラン教団とは全く正反対でした。イエスさまは独身でしたし、パウロも単身で伝道旅行に出かけました。しかし、ペトロは結婚していましたし、パウロも結婚を奨励こそすれ禁じたことはありません。とはいえ、キリスト教会も長い歴史の中で変質してきた面があることも否定できません。教会が反省すべき点は多々あります。

とにかくはっきりしているのは、教会の活動も奉仕も、最初から今日に至るまで「義務」ではないという点です。義務でないなら何なのかを説明するのは難しいですが、今日の箇所の「喜びと真心をもって」(46節)の意味を考えることによってヒントを得られるように私には思えます。

聖書における「喜び」とは「義務」の反対です。「楽しむこと」や「遊ぶこと」と同義語です。教会は会社でも学校でもありません。外部のルールを持ち込まれても困るだけです。まして国家権力のようなものとは完全に違います。ただ楽しみ、ただ遊ぶために教会は存在します。

「真心」の意味は単純(シンプル)であることです。正直であること、作為も技巧もないこと、作り笑いや下心や二枚舌がないことです。容赦なくずけずけ言えばいいのではありません。大切なのは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマの信徒への手紙12章15節)ことです。相手の言葉と思いを肯定し、共感することです。相手の言葉や表情の裏側を常に詮索してしまう傾向を持っていると自覚しておられる方は、「裏を取ること」をやめて、相手の発する言葉どおりにまっすぐ受け止めて信頼することです。

教会はそういうところです。たとえば、教会員になるために戸籍や住民票など「証拠書類」の提出を求める教会を、私は寡聞にして知りません。愚者だと言われれば愚者かもしれませんし、最もだまされやすいタイプかもしれません。しかし、互いにそれができるようになれば、教会は最も安心できる場所になります。他のどこでも得られない喜びと安心を得ることができます。

(2023年6月11日 聖日礼拝)

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