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8月, 2021の投稿を表示しています

福音の世界(2021年8月29日 各自自宅礼拝)

「雲の中の虹(創世記9章16節)」2021年8月19日午前5時 関口康撮影 「雲の中の虹」原寸サイズはここをクリックするとダウンロードできます 讃美歌21 218番 日暮れてやみはせまり 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3583号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「福音の世界」 昭島教会 秋場治憲兄 ローマの信徒への手紙人3章19~28節、4章4~5節 「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです。」 私達は今新型コロナウイルスによる感染症予防のため、自宅での礼拝が余儀なくされています。何度も収束するかに思われながらもその都度ぶり返し、現在は更に感染力を増したデルタ株なるものが猛威を振るい、東京都では病床の確保が困難な状況が続いています。しかし同時に新たなワクチンの開発も進んでいるということが報道されています。私達はこの災禍が一日も早く終息することを祈りながら、罹患された方々の回復を祈りながら、今朝も聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。 この状況は、しかし、同時にじっくりと腰を据えて、時間無制限で聖書の学びに注力できるという状況でもあるのではないかと思います。語る方も時間を気にせず、皆様もコーヒーブレイクをはさみながら読んでいただければと思い、いつもよりたっぷりの分量をお届けしたいと思います。分からないところは読み飛ばし、分かるところを拾い読みしてください。終わりまで行くと、分からなかった所が分かるようになります。 私は前回5月23日、ペンテコステ礼拝(聖霊降臨日)にお話を致しました。神はその御子イエスの上にアダム以来猶予してきた人間のすべての罪を置き、これを徹底的に打ち砕かれた。そのことによって神は罪に対するご自分の正義を示し、同時に我々罪にまみれた人間が赦される道を開かれた。わずかに50日前の過ぎ越しの祭りにおいて、「殺せ、殺せ、十字架につけよ」と叫んだユダヤ人たちも、主イエスを置き去りにして逃げ去り、自らの身の安全をはかった弟子たちも、また自分の言っていることが真実でないなら、自分は神に呪われてもいいとまで断言したペテロも、その罪が赦されて生きる道が示されたのでした。神はかつて

忍耐(2021年8月22日 各自自宅礼拝)

多摩川南側の遊歩道から多摩大橋へと向かう道で(撮影・中島克枝さん)    讃美歌21 493番 いつくしみ深い 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3582号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「忍耐」 ローマの信徒への手紙8章18~25節 関口 康 「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」 私が昭島教会で今日の聖書箇所の宣教をするのは3回目だそうです。教会の様々なことを記録してくださっている林芳子さんが、昨日教えてくださいました。ありがとうございます。 「この箇所が好きだから」何度もお話しするという動機は、私にはありません。いつもと同じように、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選ばせていただきました。 しかし、今は教会暦の「聖霊降臨節」です。日本キリスト教団の聖書日課は、教会暦に基づいて聖書箇所が選ばれています。その観点からいえば、「教団の聖書日課」に基づいて聖書の箇所を選ぶことによって「教団の教会暦」に従って聖書を読んでいる、という意味にはなります。 聖霊降臨節とは何なのかについては詳しい説明が必要でしょう。神の御子イエス・キリストが罪人の身代わりに十字架につけられて死に、3日目に復活されました。その40日後に、イエス・キリストが天の父なる神のみもとへとお戻りになり、御父の右に着座される「昇天」の出来事が起こりました。 そしてその後、ユダヤ教の「五旬祭」に当たる日に、御父と御子のもとから聖霊なる神が地上へと降り、その聖霊の力によって勇気づけられた人々の群れが立ち上がり、十字架につけられたイエスこそ真の救い主キリストであると力強く宣べ伝えることを開始する出来事が起こりました。 その出来事を「聖霊降臨」と言い、またそれを「ペンテコステ」という、それだけ耳で聞いてもすぐに意味が分からない方がきっと多いであろうカタカナ言葉で呼びます。そしてその聖霊降臨、すなわちペンテコステの出来事を覚えて過ごす季節が「聖霊降臨節」である、と説明できます。 しかし、このようなことをいくら説明しても「よく意味が分からない」というお返事が戻ってくるだけで会話が終わってしまうことはしばしばあります。「イ

家族(2021年8月15日 各自自宅礼拝)

教会から見えた夜明けの虹(2021年8月10日(火)午前5時) 讃美歌21 459番 飼い主わが主よ 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3581号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「家族」 コロサイの信徒への手紙3章18節~4章1節 関口 康 「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。」 今日も「各自自宅礼拝」です。新型コロナウィルスは幾多にも変異し、その感染は抑制されるどころか、日増しに拡大しています。 そうであるということを教会自身が検証するすべを持ちうるわけではありません。関係機関の発表内容を信頼するしかありません。「恐れることはない。ただの風邪である」と高を括る人たちもいます。しかし、私はそうは思いません。今は礼拝堂に集まって礼拝や集会を行うことは危険です。ご理解いただきたく、伏してお願いいたします。 今日の聖書の箇所も、ずっとそうしているように、日本キリスト教団の聖書日課どおりです。今の私にとっては必ずしも率先して選びたい箇所ではありません。なぜなら今日の箇所のテーマが「家族について」だからです。 ご承知のとおり私は、2018年3月に昭島市に転入したときから単身赴任です。ちょうど3年半になります。妻子3人は東京都内で元気にしています。している「と思います」。おかしな言い方をするのは毎日顔を合わせる関係にないからです。ほとんどのことは、私の想像の範囲内です。 結婚したのが1991年4月ですので30年前です。そのときから数えて27年分の家族と過ごした日々を思い出さない日はありません。しかし、言い方を換えれば、どれもこれも遠い昔の思い出になってしまっている、ということでもあります。 この夏も一度も会っていません。私の家族は、夜勤も多い福祉関係や出勤時刻が早い食品関係の仕事をしています。多忙をきわめ、家には寝るために帰ってきているだけです。加えてコロナです。会いに行っても、マスクすら外すことができず、かえって迷惑になるだけです。 こんな話をするのは、今の私にとって「家族について」語ることは非常に重い気持ちになるということを、明け透けに申し上げておきたいからです。私は自分の家族は(まだ)壊れて

苦難の共同体(2021年8月8日 各自自宅礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 405番 すべての人に 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3580号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「苦難の共同体」 使徒言行録20章17~38節 関口 康 「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」 今の予定では、今日から8月29日まで4回の主日礼拝を「各自自宅礼拝」に切り替えることにしました。私の独断ではなく、役員・運営委員の了解を得ました。皆様の中に別のご意見があるかもしれません。しかし、8月5日付けの連絡についてどなたからも直接のご意見をいただいていません。ご理解いただけますと幸いです。 今日の聖書箇所と宣教題は、日本キリスト教団の聖書日課に基づいて半年以上前に決めたものです。今の状況に合わせたものではありません。しかし「苦難の共同体」は今のわたしたちです。 「苦難」という言葉が今日の箇所に出てくるのは23節です。「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(23節)。 この「苦難」と訳されている言葉(θλιψις スリフィス)は、聖書の中に多く出てきます。共通しているのは「外部の状況によってもたらされる困難や貧困」という意味、もしくは「心理的・精神的に苦しい状態」という意味であるとギリシア語の辞書に記されています。言い換えれば、自分に原因も責任もないという意味での「外因性の苦しみ」であると言えるでしょう。 今のわたしたちがまさに「苦難の共同体」であると先ほど結び付けて申し上げたのも、わたしたち自身に非がある形での苦しみを味わっているわけではないと言いたい気持ちを含んでいます。運命論や宿命論のような立場から「コロナ禍はあなたの罪への天罰である」とか「あなたの日頃の行いが悪かった」とか、そのようなことは誰にも言われたくありません。 それでは誰の責任なのか、何が原因なのかということに興味や関心を持つことを全く妨げることはできません。考えてはいけないと禁止

【重要】昭島教会からのお知らせです

昭島教会の最寄りの公園です(昭島市立富士見公園) 親愛なる各位 国内で新型コロナウィルス感染者が急増する中、政府が「重症患者や重症リスクの高い方以外は自宅での療養を基本とする」との方針を8月2日(月)に表明しました。 わたしたちは、この事態を深刻に受け止め、昭島教会の主日礼拝と集会を8月8日(日)から8月末まで(延長の可能性あり)礼拝堂で行うことを休止いたします。 主日礼拝は「各自自宅礼拝」とします。教会学校と聖書に学び祈る会(木曜)は「休会」とします。 日曜日は礼拝堂を閉鎖する形をとらず、午前9時から12時まで開きます。安全な移動手段でお越しいただき、各自で祈りをささげることはできます。 連絡は、電話、インターネット、郵便で行います。 なにとぞご理解いただけますと幸いです。皆様の健康と安全が守られるようお祈りいたします。 2021年8月5日 日本キリスト教団 昭島教会 牧師 関口 康 〒196-0022 東京都昭島市中神町1232-13 TEL:042-543-9562 akishimakyokai@gmail.com ----------------- 【追記】 以上の連絡を、メール、電話、はがき、ブログなどで本日付けでお知らせしましたことをご報告申し上げます。 「郵送不要」を申し出てくださっている方々には、はがきを割愛させていただきました。 上の文章は日ごろ親しくしてくださっている皆様宛てに書きましたので、第三者の観点からすると誤解を招く部分があるかもしれません。 コロナ対策の観点から「各自自宅礼拝」を本教会が行うのは今回が初めてではありませんし、これまで事態を深刻に受け止めて来なかったという意味でもありません。言葉が足りていないところがありましたらお許しください。

宣教への派遣(2021年8月1日 平和聖日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 旧讃美歌 531番 こころのおごとに 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3579号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「宣教への派遣」 使徒言行録9章26~31節 関口 康 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」 今日は日本キリスト教団が毎年8月の第1主日を「平和聖日」と定めたことに基づく礼拝です。日本キリスト教団がこの日を定めたのは1962年であり、実施は翌年1963年8月からです。私は1965年生まれなのでまだ生まれていませんが、前回の東京オリンピックが開催された1964年の前年から始まったと言えば、憶えやすい話になるかもしれません。 まだ生まれていなかった私は、当時の空気を知る立場にありません。しかし、太平洋戦争終結の1945年から15年経過した1960年に締結された新しい日米安保条約に反対する人々が国会前等で大規模なデモを行った、いわゆる60年安保の議論を背景にしながら、日本キリスト教団でも活発な議論を経て「平和聖日」が定められたという流れにあることは明白です。 石川先生はじめ昭島教会のこれまでの歩みを熟知しておられる方々から教えていただいたのは、わたしたちは「平和聖日」をたいへん重んじる教会として歩んできたということです。この日に特別講師をお招きして講演会を行っていたこともあります。週報の「今週の祈り」の中に「世界の平和と核兵器廃絶のために。飢餓と騒乱に苦しむ人々のために」という祈りを今日に至るまで毎週記載してきたのもその一環であるということです。 私のことが皆さんにどう見えているかは分かりません。表立った平和運動のようなことは全くしていません。しかし、「平和聖日」を重んじることや「平和の祈り」を献げ続けることには一切異存がありません。偶然ですが、昨年から非常勤講師として聖書を教えている神奈川県茅ヶ崎市のアレセイア湘南中学校高等学校、そして今年度から小学校でも教えるようになった学校法人の名称が「平和学園」であることを、私はたいへん誇りに