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苦難の共同体(2021年8月8日 各自自宅礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 405番 すべての人に 奏楽・長井志保乃さん


「苦難の共同体」

使徒言行録20章17~38節

関口 康

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」

今の予定では、今日から8月29日まで4回の主日礼拝を「各自自宅礼拝」に切り替えることにしました。私の独断ではなく、役員・運営委員の了解を得ました。皆様の中に別のご意見があるかもしれません。しかし、8月5日付けの連絡についてどなたからも直接のご意見をいただいていません。ご理解いただけますと幸いです。

今日の聖書箇所と宣教題は、日本キリスト教団の聖書日課に基づいて半年以上前に決めたものです。今の状況に合わせたものではありません。しかし「苦難の共同体」は今のわたしたちです。

「苦難」という言葉が今日の箇所に出てくるのは23節です。「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(23節)。

この「苦難」と訳されている言葉(θλιψις スリフィス)は、聖書の中に多く出てきます。共通しているのは「外部の状況によってもたらされる困難や貧困」という意味、もしくは「心理的・精神的に苦しい状態」という意味であるとギリシア語の辞書に記されています。言い換えれば、自分に原因も責任もないという意味での「外因性の苦しみ」であると言えるでしょう。

今のわたしたちがまさに「苦難の共同体」であると先ほど結び付けて申し上げたのも、わたしたち自身に非がある形での苦しみを味わっているわけではないと言いたい気持ちを含んでいます。運命論や宿命論のような立場から「コロナ禍はあなたの罪への天罰である」とか「あなたの日頃の行いが悪かった」とか、そのようなことは誰にも言われたくありません。

それでは誰の責任なのか、何が原因なのかということに興味や関心を持つことを全く妨げることはできません。考えてはいけないと禁止されたから考えるのをやめるという人はまずいませんし、禁止する権限は誰にもないでしょう。しかしだからといって、考えてもすぐに答えが出ない場合、あるいは原因を突き止め、責任を追及したからといって、苦しい状態や危険な状態をすぐ治めることができない場合は、「とにかく逃げるしかない」としか言いようがありません。

今日の箇所に登場するのは使徒パウロです。「苦難」という言葉を発しているのもパウロです。第2回宣教旅行の最中です。そのパウロが「苦難」を口にすることに、明確な文脈があります。

22節から読むと、その文脈が少し分かります。「そして今、わたしは、霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません」(22節)とパウロはまず語り、その続きに「ただ、投獄と苦難がわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(23節)と語っています。

そのことがはっきり分かっているのならば、エルサレムに行かなければいいだけではないかと言いたくなる気持ちが、私の中に起こらないわけではありません。なぜなら「苦難」の辞書的な意味は「外部の状況によってもたらされる困難や貧困」なのですから。あなたのせいではないのですから。危険からは逃げてもいいし、困難や貧困や苦痛を避けて生きたからといって誰からも咎められることはないし、そのことを咎める権限など誰も持っているはずがないのですから。

いま申し上げた気持ちが私の中に起こらないわけではないと言いました。このパウロの説教を聴いた人々にも同じ気持ちが起こったようです。

パウロが「そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています」(25節)と言った言葉に反応した人々が、その説教が終わった後「激しく泣いた」(37節)と記されています。「特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ」(38節)と続いています。

つまりこれは、パウロが自分の死を覚悟していることの表明であり、私がエルサレムに行くと殺されるだろうという意味です。しかし、そのことがあらかじめ分かっているのにあなたはなぜそのような危険なところに行こうとするのですか、行かないでください、と引き止めたい人々が泣き出したわけです。しかし、パウロはその人々を振り切ってエルサレムへと旅立ちました。

しかも、この説教の中で、パウロが最も強く、そして最も厳しいことを語っているのは、26節です。「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません」(26節)と言っています。

「責任」と訳されている言葉(καθαρος カタロス)の辞書的な意味は英語のpure(ピュア)やclean(クリーン)、つまり「純粋」や「きれい」という意味です。転じて、特に道徳的・宗教的な文脈では「罪から自由である」という意味になります。

そして「だれの血についても」の「血」は、神の言葉に背く人に神が与える刑罰の血を指しています。つまり、ここでパウロが言っていることの趣旨は「あなたがたのうちの誰かが神の言葉に背いて神から罰を受けたとしても、あなたがたに神の言葉を教えた者としての私の罪ではない」ということです。その「責任」は私にはない、ということです。

パウロの説教を聴いていた人たちは冷たく突き放されたような感覚を抱いたかもしれません。事実パウロは突き放したのです。パウロは死の覚悟と決意をしていました。自分がいなくなっても、あなたがた自身が神の前で責任をとりうる自己を確立できるようになってほしいとパウロは強く願ったのです。「すべての責任は私が引き受けるので、あなたがたが責任を負う必要はない」などと言わないで。そのように優しく温かく言うほうがパウロの株が上がったかもしれませんが。

31節と32節に記されているパウロの言葉の趣旨も、それと同じです。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」(31~32節)。

この箇所は読み間違える可能性がありますので、注意が必要です。パウロは「神とその恵みの言葉と『を』あなたがた『に』ゆだねます」と言っていません。パウロが言っているのは「今までは私が神の言葉を語る立場にあった。しかし、これからはきみたちが神の言葉を語る番だ。私の立場をきみたちに譲る」という意味ではありません。

そうではなく「あなたがた『を』神の言葉『に』ゆだねる」とは、あなたがたについての責任は私には一切ありません、という意味です。文字通りの「別れ」の言葉をパウロは語っています。

パウロの言葉にかこつけて私が何かを言おうとしているのではありません。しかし、パウロの言葉から学べることがあります。それは、聖書に学び、神の言葉に聴くことと、常に誰かに依存して生きるのでなく自立した自己の確立を目指すことは、同じ方向を向いているということです。

(2021年8月8日 各自自宅礼拝)

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