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6月, 2021の投稿を表示しています

主にある共同体(2021年6月27日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 402番 いともとうとき 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3574号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「主にある共同体」 使徒言行録4章32~37節 関口 康 「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」 今日の朗読箇所は、新約聖書の使徒言行録4章32節から37節までです。この箇所に描かれているのは、イエス・キリストの復活と昇天、そして聖霊降臨の出来事が起こってまもなくの頃の初代のキリスト教会の姿です。 よく似た内容の記事が、2章43節から47節までにもあります。そちらのほうから先に読むと、「信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(2章44~45節)とあります。今日の箇所にも「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(4章32節)とあります。 さらに「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」(4章34~37節)とあります。 これで分かるのは、今日の箇所に描かれている時期の初代のキリスト教会の人々は、自分たちの持ち物や財産を共有し、ひとりも貧しい人がいないように分配していたということです。初代のキリスト者人口がどれくらいだったかについては、4章4節に「男の数が五千人ほどになった」とあるのを信頼すれば、女性と子どもを含めて1万人ほどではないかと想像できます。それだけの人々が自分の持ち物や財産を売ってお金に換え、全部集めて使徒の足もとに置いたという話が事実であれば、それなりの金額にはなっただろうとも想像できます。 先ほどから「信頼するとしたら」

生涯のささげもの(2021年6月20日 主日礼拝) 

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 515番 きみのたまものと 奏楽・長井志保乃さん 【付録】湘南の浜辺から江ノ島を望む(2021年6月18日) 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3573号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「生涯のささげもの」 コリントの信徒への手紙二8章1~15節 関口 康 「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」 今日の朗読箇所は、使徒パウロのコリントの信徒への手紙二8章1節から15節までです。この箇所の趣旨は「献金のすすめ」です。 ただし、そのことがはっきり分かるようには書かれていません。回りくどい書き方だと言うのは言い過ぎです。しかし、パウロが言いにくいことを言いにくそうに書いている様子が伺えます。それはたとえば、この箇所のどこにも「お金」という言葉が用いられていないことから感じます。その代わりに用いられているのは「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」(4節)です。 ここで「聖なる者たち」の意味は、キリスト者であり、教会です。「慈善の業と奉仕」と聞くと今のわたしたちは、教会バザーのようなことをすぐ連想するでしょう。しかし、ここで言われているのは、パザーのようなことに限りません。 要するにここでパウロが求めているのは、わたしたちが自分の働きで得た収入のすべてを自分のために用いるのでなく、その一部を教会の働きのために献げることです。そのことを総称して「慈善の業と奉仕」と書いていますが、「お金」という言葉を用いるのを避けたがっているようにも見えます。 今日の箇所の内容は、大別すると以下の3つの部分に分けることができます。 (1)マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて(1~7節) (2)慈善の業と奉仕は、命令ではなく、自発的に行う(8~12節) (3)慈善の業と奉仕は、全体の釣り合いをとるために行う(13~15節) 第1の部分である「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて」の趣旨は例示です。「諸教会」と書かれているのは、単独の教会でなく複数の教会を指して

世の光としての使命(2021年6月13日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13)     讃美歌Ⅱ編 26番 ちいさなかごに 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3572号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「世の光としての使命」 フィリピの信徒への手紙2章12~18節 「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」 今日の朗読箇所は、使徒パウロのフィリピの信徒への手紙2章12節から18節までです。新共同訳聖書で「共に喜ぶ」と小見出しが付けられている段落です。12節の初めに「だから」と記されているのは、この箇所までに書かれたすべての内容を受けています。パウロがこの箇所までに書いていることには辛辣な内容が含まれています。 この手紙をパウロは「監禁されている」状態、すなわち獄中から書き送っていることを彼自身が明らかにしています(1章7節、1章13節など)。辛辣な内容は、そのことに関係しています。パウロが監禁されている状態にある中、「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいる」(1章10節)というのです。 それはどういうことか。「一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(1章15~17節)というのです。 パウロが言おうとしていることは、なんとなく分かります。キリストを宣べ伝えることを競争心や利己心や名誉心などで考えている人たちがいる、ということです。 私が説教した日の礼拝に何人集まったか。何人の人が洗礼を受けることを決心したか。自分が牧師をしている教会に何人の信徒が所属しているか。そのようなことを比較と競争で考え、あの人より私は優れているとか劣っている、など言い始める。他の教会や他の伝道者と協力関係を結ばず、蹴落とす対象と見る。 パウロは今、獄中で監禁されていて身動きがとれな

悔い改めの使信(2021年6月6日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3571号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「悔い改めの使信」 使徒言行録17章22~34節 関口 康 「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」 今日の聖書の箇所に登場するのは使徒パウロです。パウロは生涯で3回の伝道旅行を行ったことが知られています。今日の箇所に描かれているギリシアの首都アテネでパウロが伝道したのは、第2回伝道旅行のときです。 ギリシアにとってアテネは古代から現代に至るまで最大都市であり、文化や芸術や学問の中心地であり続けてきました。そのアテネにパウロが行きました。 パウロがアテネに人生の中で何度行ったことがあるかは分かりません。しかし、少なくとも彼がユダヤ教徒からキリスト教徒へと改宗した後にアテネを訪ねたのは、このときが初めてだったのではないかと思えてなりません。 なぜそう思うのか。今日の箇所にはっきり書かれているとおり、アテネの至るところに偶像があるのを見て「憤慨した」(16節)と証言されているからです。 パウロに限らず、ある人が過去に一度も体験したことがないことを新しく始めるとか、いまだかつて行ったことがない場所に初めて行ったときに、その人が「憤慨する」としたら、明らかに違和感の表明でしょうし、もっと強く言えば「居たたまれない」「苦痛でたまらない」というような感情を抱いたことを意味するでしょう。 しかもここで、アテネでパウロが抱いた「憤慨」の理由が「この町の至るところに偶像がある」のを見たからであるとはっきり書かれていることから分かるのは、それは決して大げさな意味ではなく、一方の「ヘレニズム」と歴史家たちが名付けてきた古代ギリシア文明において培われてきた宗教性と、他方のかつてはユダヤ教徒だったけれどもキリスト教徒へと改宗したパウロが、いずれにせよ「広義のヘブライズム」と総称できる、彼自身の宗教的な自覚とが激突したことで発生した否定的な感情であろう、ということです。 つまり、別の言い方を