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世の光としての使命(2021年6月13日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13)

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」

今日の朗読箇所は、使徒パウロのフィリピの信徒への手紙2章12節から18節までです。新共同訳聖書で「共に喜ぶ」と小見出しが付けられている段落です。12節の初めに「だから」と記されているのは、この箇所までに書かれたすべての内容を受けています。パウロがこの箇所までに書いていることには辛辣な内容が含まれています。

この手紙をパウロは「監禁されている」状態、すなわち獄中から書き送っていることを彼自身が明らかにしています(1章7節、1章13節など)。辛辣な内容は、そのことに関係しています。パウロが監禁されている状態にある中、「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいる」(1章10節)というのです。

それはどういうことか。「一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(1章15~17節)というのです。

パウロが言おうとしていることは、なんとなく分かります。キリストを宣べ伝えることを競争心や利己心や名誉心などで考えている人たちがいる、ということです。

私が説教した日の礼拝に何人集まったか。何人の人が洗礼を受けることを決心したか。自分が牧師をしている教会に何人の信徒が所属しているか。そのようなことを比較と競争で考え、あの人より私は優れているとか劣っている、など言い始める。他の教会や他の伝道者と協力関係を結ばず、蹴落とす対象と見る。

パウロは今、獄中で監禁されていて身動きがとれない。これはチャンスであると競争心をむき出しにして元気づいた人たちがいるということでしょう。それに対してパウロは大らかなことを書いています。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが宣べ伝えられているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(1章18節)。

たとえば今の日本で「不純な動機で洗礼を受けました」とか「不純な動機で牧師になりました」という人が何人いるかは私には分かりませんし、それが何の得になるのかはもっと分かりません。しかし、たとえそうであっても問題ないと、もしパウロならそう答えるかもしれないと考えることができる根拠が、ここにあります。

わたしたちにとっても決して他人事ではないでしょう。信仰生活や、あるいは牧師生活が長くなればなるほど、最初は純粋だったかもしれない動機の中に、いつの間にか不純物が入り込むことがありえます。「みなさんはどうですか」と皆さんにお尋ねしないでおきます。その代わりに、私も自分の話をしないでおきます。「お互いさま」ということにしておきましょう。

パウロは、たとえ動機は不純でも、とにかくキリストが告げ知らされているのだから問題ないとしたうえで、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(1章27節)と書いています。「キリストの福音にふさわしい生活」は、「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦うこと」(1章27節)を指しています。

この「一つの霊によって」「心を合わせて」ということと、信仰生活と福音宣教の動機に競争心や利己心や名誉心が入り込むこととは矛盾しているかもしれません。しかし、ここから先は大人と子どもの違いだと申し上げておきます。

たとえ心の中に別の動機があるとしても、すべてをさらけ出さないでいるのが、大人としての態度ではないでしょうか。そしてそのことと、今日の箇所の最初に記されている「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)がつながっているでしょう。

「不平や理屈を言わずに行うこと」の勧めは軍隊式であるとお感じになる方がおられるかもしれませんが、必ずそこに結び付けなくてもよいでしょう。黙って従う。それは、あらゆることに反抗心をむき出しにして、現場を混乱に陥れ、そこで協力して共に働く人々の働きや目標達成を妨害することを意味することの反対を指しているとすれば、どうでしょう。

言いたいことを我慢することには苦痛が伴います。言うべきことを押し黙ることは無責任の面が生じます。しかし、だからといって、言いたいことの最初から最後まで言わなければ気が済まないというのは子どもの状態でしょう。もう少し成長する必要があるでしょう。

その続きに書かれている「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15~16節)は、成熟した人の姿を指していると言えるでしょう。

また同じことを申します。その「世にあって星のように輝く、非の打ちどころのない神の子」になることと、動機に不純なものが入り込んでいることとは矛盾しているかもしれません。神はわたしたちの心の中のすべてをご存じであるというのも、そのとおりです。しかし、自分の心の中にあることをすべて外へとさらけ出すことが、その人の心の純粋さを表すかといえば、そうではありません。そこは区別すべきでしょう。

パウロが推奨しているのは、「キリストを模範とすること」です。そのことが、今日の朗読箇所の直前の2章1節から11節までに記されています。この箇所の中で私がいつも思い起こし、自分の戒めとしているのは、3節から5節の途中までに記されていることです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。

特にこの中の「互いに相手を自分よりも優れた者と考える」というのは、順位や序列を一切考えずに、要するに自分は誰よりも下であると考えること以外の何を意味するでしょうか。

「私はあの人よりは下だが、あの人よりは上である」と常に考え続ける状態は、苦しいです。相対評価と言います。イエス・キリストはそうではないと、パウロは信じ、またそのように初代教会の人々は信じました。6節から8節までに記されているのは、初代教会の信仰告白です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6~8節)。

イエス・キリストの「謙遜」が、わたしたちの模範です。神であられるキリストが、その立場をすべて捨て、すべての人の僕になられました。そのキリストにならって、わたしたちもすべての人の僕であるべきです。

これは教会の中だけの話ではありません。「世にあって星のように輝く」すなわち「世の光」として生きていこうとする、わたしたちの人生の目標です。

(2021年6月13日)

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