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永遠のいのち(2023年10月29日 永眠者記念礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 434番 主よ、みもとに 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「永遠のいのち」 ヨハネによる福音書3章1~21節 関口 康 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。」 今日の礼拝は永眠者記念礼拝です。「永眠者」というのは日本キリスト教団の教会暦の表現ですが、難しい問題を含んでいます。人の死を「眠りにつく」と表現する聖書箇所はあります。たとえば、使徒パウロのコリントの信徒への手紙一15章20節には「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と記されています。 しかし、続く15章31節には「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」と記されていて、亡くなった方は永遠に眠るのではなく、眠りから覚めて復活すると教えていますので、「永眠者」という表現でよいかどうかを熟考する必要が生じます。しかし、「永眠」を「永遠に眠る」ではなく「永く眠る」という意味でとらえれば、目を覚ますときが必ず訪れることを含みますので、大きな矛盾は無くなります。 「召天」という表現については、使うべきかどうか、先日ある方から相談を受けました。この表現にも問題があります。私の知るかぎり30年以上前から議論があります。「天に召された者」という意味で用いられますが、漢文の知識がある人によると「召天」は「天を召す」としか読めない、というのが「召天」という表現を使うべきでないとする理由のひとつです。聖書で「天」は「神」の言い換え表現で用いることが多いので、「神を呼びつける者」という意味になってしまうというわけです。 しかし、主にプロテスタント教会が用いてきた「永眠」や「召天」、またカトリック教会では「帰天」という言葉が用いられますが、いずれにせよ意図していることは、人間の死を「一巻の終わり」であるとキリスト教会は考えていないことの意思表明です。わたしたちは、先に召された信仰の先達たちが、神から「永遠の命」を授かり、まさに生きておられることを信じています。そして、あとに続くわたしたちも同じ道を歩んでいると確信しています。 いま私はキリスト教主義学校で聖書科の非常

新しい時の到来(2023年10月22日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 495番 しずけきいのりの 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「新しい時の到来」 秋場治憲 コヘレトの言葉3章1~15節 前回はヨハネ福音書13章の主イエスが最後の晩餐において、弟子たちの足を一人ずつ洗い、腰に下げた手ぬぐいでその足をふかれたという出来事を学びました。十字架の死が目前となる中で、「主イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 [1] 」と語られていました。   主イエスが置かれていた状況というのは時間的に言っても、まさに最後の最後までと言うことができる状況でした。この上なく愛し抜かれたと訳されている言葉は英語では to the end  と訳されています。ギリシャ語でも同じ表現になっています。これは「最後まで」という意味と同時に、「究極まで愛された」と解することもできる言葉です。「究極まで愛された」というのは、主イエスの命の炎が燃え尽きるまで愛されたと解することが出来ると思います。愛するということは、愛される者にとっては、実に喜ばしいこと、実に甘きことです。しかし愛する者にとっては、その身を削ることとなります。一本のろうそくが周りを照らしながら、その身を燃やし尽くす譬えは、そのことを表しています。   主イエスは御自分亡き後の弟子たちを愛おしみ、彼らの足を一人一人洗われた。当時のユダヤ人たちはサンダル履きで、その足は毎日洗わなければならなかった。そして弟子たちは主イエス亡き後、自分の足を洗うたびに主イエスが自分の足を洗って下さったことを思い起こし、主の愛を確かなものとしていったのだと思います。聖餐式もこれと同じこと。私たちの足もこの時同時に洗われていたことを信じ、その主イエスの愛の万分の一でしかないけれども、その愛に励まされながら隣人に関わっていく勇気を与えられる者でありたいと思います。その意味でも最後の晩餐における出来事として、共観福音書では聖餐式でしたが、ヨハネ福音書では主イエスによる弟子たちの洗足、ここには共に相通じるものがあると思います。聖餐式も洗足も人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのであ

信徒の成長(2023年10月15日 信徒伝道週間)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 504番 主よ、み手もて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「信徒の成長」 フィリピの信徒への手紙1章1~11節 関口 康 「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」 今日は日本キリスト教団の定める「信徒伝道週間」の初日にあたり、お2人の教会員の証しを伺いました。ご準備くださったお2人に心から感謝申し上げます。 今日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節から11節までです。この手紙は使徒パウロが書いたものです。今日の箇所に記されているのは、パウロがフィリピの信徒のためにささげた祈りの言葉(9~11節)と、その祈りをささげた理由(3~8節)です。 パウロはフィリピの教会のみんなのことを思い出すたびに、神に感謝し、喜びをもって祈っていると言います(3~4節)。なぜなら、あなたがたが最初の日から今日まで福音にあずかっているからだと言います(5節)。 「最初の日」(5節)の意味は、パウロとフィリピ教会が最初に出会った日を指していません。その意味で受け取ると、私パウロと出会ったことで初めてあなたがたがイエス・キリストの福音を受け入れることができた、その日から今日に至るまで、ということにならざるをえませんので、まるでパウロの伝道者としての個人的な力量について書いているかのように読めてしまいます。 「福音」は宣べ伝えられた途端に伝道者の手を離れます。また、手を離さなければなりません。伝道者は「福音」そのものが持つ力を信頼し、「自分が宣べ伝えた、自分が教えた」という思いを捨て、教会の信徒を自分の支配から解放しなければなりません。 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)の「その方」は、神です。福音宣教の主体は、神です。神はご自身が始めたことを最後まで成し遂げてくださり、完成してくださる方であるとパウロは言っています。パウロが始めたことをパウロが完成するわけではありません。 12節の「福音の前進」も、私パウロが福音を前進させた、という意味ではない

弱さへのいたわり(2023年10月8日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 197番 ああ、主のひとみ 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「弱さへのいたわり」 フィレモンへの手紙 8~22節 関口 康 「オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる人としても、愛する兄弟であるはずです。」 今日はフィレモンへの手紙を開きました。使徒パウロの手紙です。しかし、他の手紙とは性質が違います。ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙といった、教会に宛てて書かれ、多くの人が目にすることを前提して書かれたものではありません。きわめて個人的な性格を持ち、厳格に言えばこの手紙が公開されるのは守秘義務違反ではないかと言いたいほど「デリケートな」内容を含んでいます。しかし、2千年前の「事件」は時効です。そして、この手紙こそ、パウロの「人となり」と「熱い思い」がよく表れているものです。 フィレモンはコロサイにいたと考えられます。コロサイは現在のトルコの町です。「アフィア」(2節)はコロサイから出土した墓碑に名が刻まれているそうですが、フィレモンの妻の名前としてよいだろうと言われています(P. シュトゥールマッハー)。 フィレモンは裕福な人で、広い家を持ち、その家が教会(家の教会)となり、その教会の牧師だったと考えられます。そのフィレモンの家に「オネシモ」という名の奴隷がいました。この点は2千年前の話として我慢して読まざるをえません。奴隷制度をパウロは否定もしていません。 しかし、そのオネシモがフィレモンの家で働いているうちに、そこは「家の教会」でもあったのでイエス・キリストの福音に接するようになり、その影響で、自分はもっと自由であるべきだと考え始めたようです。しかも、当時多くのキリスト者から尊敬されていたパウロがコロサイにいるという情報をオネシモが手に入れ、パウロのもとに行きたいという願いを持ちました。 それでオネシモは、主人のフィレモンに黙って家から逃亡したようです。しかし、奴隷である以上、奴隷を購入した主人から逃げること自体が主人の損失ですし、それだけでなく、オネシモはフィレモンの家から逃亡する際に金品の持ち逃げのようなことをしたようです。盗みを働いた、ということです。 いま私は「ようです」とか「

豊かさと貧しさ(2023年10月1日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 518番 主にありてぞ 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「豊かさと貧しさ」 ルカによる福音書16章19~31節 関口 康 「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」 今日の聖書箇所に記されているのは、イエスさまのたとえ話です。登場する人物は3人です。 ひとりは「ある金持ち」です。名前は明かされません。西暦3世紀のエジプトの写本では名前が付けられていますが、後代の加筆です。名前がないことに意味があると考えるほうがよいです。名前があるとこの人物の言動が他人事になるからです。イエスさまの意図はむしろ、この金持ちは自分のことだと、自分に当てはめて受け取るように、聴衆(読者)に求めることにあります。 2人目には「ラザロ」という名があります。多くの方はヨハネによる福音書11章に登場するマルタとマリアの弟のラザロを思い出されるでしょう。しかし、今日の箇所のラザロは架空の人物です。とはいえ、大事な点があります。イエスさまのたとえ話の中で名前がある登場人物は、今日の箇所のラザロだけです。また、ラザロという名前は、ヘブライ語で「神が助ける」という意味の「エルアザール」をラテン語化したものです。この名前に大きな意味があると考えることができます。 3人目はアブラハムです。ユダヤ人の先祖です。しかし、アブラハムは血縁としてのユダヤ民族の父であるだけでなく、使徒パウロがローマの信徒への手紙4章で詳しく論じているとおり、キリスト者にとっての信仰の父でもあります。ただし、今日の箇所でアブラハムはやはりイエスさまのたとえ話の中に登場しているにすぎません。しかも、登場場面は死後の世界です。 「ある金持ち」は「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(19節)とあります。「紫の布」は上着で、「麻布」は下着。上下とも高価な衣服を身に着けていた、という意味です。「ぜいたくに遊び暮らす」は毎日宴会を開いていた、という意味です。 金持ちの門前に「ラザロ」が横たわっていました。「できものだらけ」と訳されているのは医学用語で「ただれ」という意味です。ラザロが金持ちの門前にいた理由は「その食卓から落ちる物で腹を満たしたい