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2月, 2023の投稿を表示しています

ベトザタの池での癒し(2023年2月26日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 287 ナザレの村里 礼拝開始のチャイムはここでお聴きになれます 週報(第3661号)電子版はここでダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここでダウンロードできます(近日公開) 「ベトザタの池での癒し」 ヨハネによる福音書5章1~18節、申命記2章13~15節 秋場治憲 「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」 (2023年2月26日 聖日礼拝)

五千人の食事(2023年2月19日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 6番 つくりぬしをさんびします 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3660号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「五千人の食事」 ルカによる福音書9章10~17節 関口 康 「しかし、イエスは言われた。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』」 今日の箇所の小見出しに「五千人に食べ物を与える」と記されています。この記事は4つの福音書すべてにあります。どの福音書にも共通しているのは、この奇跡の後、イエスさまがご自分の死と復活についてお語りになることです。十字架において真の神の愛をお示しになることこそが、イエスさまが救い主としてお生まれになったことの意味であり、目的です。そのことをイエスさまが弟子たちにお語りになる前に「五千人の食事の奇跡」が行われたことは記憶されるべきです。 そして、いま申し上げたこととの関連でもうひとつ言えるのは、イエスさまは十字架にかけられる前の夜、弟子たちと共に最後の晩餐を囲まれました。そのときイエスさまはパンをお取りになり、感謝の祈りを唱えてパンを裂かれ、弟子たちにお与えになって、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」とおっしゃいました。またぶどう酒の杯をおとりになって、「この杯はあなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」とおっしゃいました。 この最後の晩餐でイエスさまが示されたのも、まさに十字架における真の神の愛そのものでした。つまり、「最後の晩餐」と「五千人の食事の奇跡」とに明らかに共通する要素がある、ということです。 その「最後の晩餐」を記念する聖礼典が「聖餐式」です。今日の週報をご覧ください。先週の役員会で4月12日のイースター礼拝をもって聖餐式を再開することにしました。3年前の2020年3月1日に最後の聖餐式をして以来の再開です。ぜひ重んじてご出席いただきたくお願いいたします。 しかし、今日これからお話しすることは、「聖餐式」の意義ではありませんし、「最後の晩餐」の意義でもありません。「明らかに共通する要素がある」と申し上げましたが、しかし、明らかな違いもある「五千人の食事の奇跡」についてお話

起きて歩きなさい(2023年2月12日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 390番 主は教会の基となり 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3659号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「起きて歩きなさい」 ルカによる福音書5章12~26節 関口 康 「そして、中風の人に、『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた」 今日の朗読箇所に描かれている出来事は大きく分けてふたつあります。欲張らないでどちらかを選ぶことも考えましたが、両方読むことにしました。共通するテーマがあります。どちらも、イエスさまが「病気の人をいやされた」出来事です。 ルカによる福音書の著者ルカは「医者」だった可能性があります。ひとつの根拠は、コロサイの信徒への手紙4章14節に見つかる「医者ルカ」という言葉です。もうひとつの根拠は、まさに今日の箇所などに、医者である人しか用いない医学の専門用語が出て来ることです。 そのひとつが「全身重い皮膚病にかかった人」(12節)です。「重い皮膚病」と訳されています。ギリシア語で「レプラ」と言いますが、初期の新共同訳聖書では「らい病」と訳されていました。 「らい病」と訳された聖書をお持ちの方は「重い皮膚病」と訂正していただきたく願います。大きな問題になった点です。ギリシア語の「レプラ」が「らい病」または「ハンセン氏病」と同じかどうかは不明であるというのが、今日通用している見解です。不明なのにそうだと決めつけてしまいますと、聖書の言葉がその病気で苦しむ方々に対する差別や偏見の原因になりかねません。 しかし、今申し上げた点を踏まえたうえで、この福音書の著者がこの重い皮膚病は「全身」に広がるものであることを描いているのは医学的症状への知識がある人だと考えることができます。また、今日の箇所に出て来るもうひとつの医学用語が「中風を患っている人」(18節)です。体の一部に麻痺している箇所がある人を指します。 最初に登場する重い皮膚病にかかった人のことから申します。どの皮膚病かは特定できません。しかし、今日の箇所に記されているのは、その皮膚病にかかった人のその病気が治ったときは、祭司のところに行って自分の体を見せ、モーセが定めたとおり

忍耐して実を結ぶ(2023年2月5日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 412番 昔主イエスの 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3658号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「忍耐して実を結ぶ」 ルカによる福音書8章4~15節 関口 康 「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」 今日の聖書の箇所に記されているのは「種を蒔く人のたとえ」です。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)のすべてに記されています。たとえ話はクイズの一種です。質問と正解がペアになっています。テストであるとも言えますが、成績はつきません。点数の問題ではなく、よく考えることが大切です。イエスさまは、どのたとえ話においても、趣旨や意図を考えてほしいと願っておられます。 ただしその場合、すでに入門しているかまだ入門していないか、弟子であるかそうでないかは区別されます。その区別自体が、イエスさまがたとえを用いて語られた理由です。このように言うと困惑する方がおられるかもしれません。しかし、イエスさまは意地悪な方ではありません。ご自分の弟子でない人たちをからかったり非難したりする方ではありません。 もしそうでないとしたら、区別の意図は何でしょうか。まだ弟子でない人々には「神の国の秘密」(10節)がたとえで伝えられます。秘密の答えが分かる弟子とそうでない人に明確な違いがあります。その違いは「知識」の差です。「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」(10節)と言われます。 それなら話は簡単です。勉強すればいいだけです。知らないことがあるから我々は学び続けるわけでしょう。イエスさまは、知識が無い人をからかったり非難したりしておられるのではなく、真理を知るために光の中に入ってきてほしい、同信の仲間に加わってほしいと強く呼びかけておられます。 ある人が種蒔きに出て行きました。道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまいました。石地に落ちた種は、芽は出ましたが、水気が無いので枯れてしまいました。他の種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまいました。「茨」はパレスチナの畑を悩ませたとげのある雑草の総称です。その茨が若芽のとき