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すべての時は、御手のうちに(2023年12月31日)

クリスマスイヴ音楽礼拝(2023年12月24日 宣教 秋場治憲先生) 讃美歌 410番 鳴れかし鐘の音 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「すべての時は、御手のうちに」 コヘレトの言葉3章1~15節 秋場治憲 「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」 (2023年12月31日 歳末礼拝)

天に栄光、地に平和(2023年12月24日 クリスマス礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 261番 もろびとこぞりて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「天に栄光、地に平和」 ルカによる福音書2章8~20節 関口 康 「『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」 クリスマスおめでとうございます! 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書2章8節から20節です。イエス・キリストがお生まれになったとき、野宿をしていたベツレヘムの羊飼いたちに主の天使が現われ、主の栄光がまわりを照らし、神の御心を告げた出来事が記されています。 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(10節)と、天使は言いました。 天使の名前は記されていません。ルカ福音書1章に登場するヨハネの誕生をその母エリサベトに告げ、また主イエスの降誕をその母マリアに告げた天使には「ガブリエル」という名前が明記されていますし、ガブリエル自身が「わたしはガブリエル」と自ら名乗っていますが(1章19節)、ベツレヘムの羊飼いたちに現われた天使の名前は明らかにされていません。同じ天使なのか別の天使なのかは分かりません。 なぜこのようなことに私が興味を持つのかと言えば、牧師だからです。牧師は天使ではありません。しかし、説教を通して神の御心を伝える役目を引き受けます。しかし、牧師はひとりではありません。世界にたくさんいます。日本にはたくさんいるとは言えませんが、1万人以上はいるはずです。神はおひとりですから、ご自分の口ですべての人にご自身の御心をお伝えになるなら、内容に食い違いが起こることはありえませんが、そうなさらずに、天使や使徒や預言者、そして教会の説教者たちを通してご自身の御心をお伝えになろうとなさるので、「あの牧師とこの牧師の言っていることが違う。聖書の解釈が違う。神の御心はどちらだろうか」と迷ったり混乱したりすることが、どうしても起こってしまいます。 もし同じひとりの天使ガブリエルが、エリサベトに

マリアの召命と献身(2023年12月17日 待降節第3主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 175番 わが心は 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「マリアの召命と献身」 ルカによる福音書1章26~38節 「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。」 (2023年12月17日 聖日礼拝)

救い主の降誕を喜ぶ(2023年12月10日 待降節第2主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 231番 久しく待ちにし 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「救い主の降誕を喜ぶ」 マタイによる福音書2章1~12節 関口 康 「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった、学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」 (2023年12月10日 聖日礼拝)

神は我々と共におられる(2023年12月3日 待降節第1主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 241番 来たりたまえ われらの主よ 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「神は我々と共におられる」  マタイによる福音書1章18~25節 関口 康 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」 (2023年12月3日 聖日礼拝)

大いなる喜び(2023年11月26日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 386番 人は畑をよく耕し 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「大いなる喜び」 コヘレトの言葉2章1~11節、24~26節 秋場治憲 「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは神の手からいただくもの。」  前回の宣教の後少ししてから、ある方から質問がありました。ヨブは苦難の中で仲保者を求めた、しかもこの仲保者が自分の味方として必ず地の上に立たれるということだったけれども、このことはヨブ記のどこに言及されているのか宣教要旨には記載されておらず、見つけることが出来ないので教えてほしいというものでした。新共同訳の言葉とは少しニュアンスが違いますので、それで見つけることが出来なかったのだと思います。これはヨブ記19:25~27に記載されている言葉です。口語訳の方が分かりやすいと思いますので、参考までにこの個所の口語訳を掲載しておきます。後でご自身で比較をしてみてください。    25節 わたしは知る      わたしをあがなう者はいきておられる、      後の日に彼は必ず地の上に立たれる。 26節 私の皮がこのように滅ぼされたのち、     わたしは肉を離れて神を見るであろう。 27節 しかもわたしの味方として見るであろう。     わたしの見る者はこれ以外のものではない。     わたしの心はこれを望んでこがれる。   ヨブは激しい苦難の中で、神と自分の間に立ってくれる仲保者を求め、しかも自分の味方として立って下さる方を待ち望んでいる。友人たちは因果応報の地番に立ち、ヨブがこのような悲惨な目にあっているのはヨブが罪を犯したからだと言って責め立てる。ヨブはそんなことは自分もよく承知していると言う。しかしヨブを打つ手は止むことがない。ヨブはこの悲惨の中で悲鳴をあげながら、彼はこの自分をあがなう者が、地の上に立たれることを切望しているのです。ここでヨブは因果応報の世界から、福音の世界へ突き抜けようとして、その出口を望み見ている。そしてよきおとずれを持ってこられる方を、待ち焦がれているのです。私たちは既にその方を知っています。聖書を通し既にこの私たちを贖って

悩みも多いが楽しく生きる(2023年11月19日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 412番 昔 主イエスの 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悩みも多いが楽しく生きる」 ローマの信徒への手紙8章18~30節 関口 康 「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(18節)とあります。「現在の苦しみ」の「現在」は、時間的な「今」を指しているだけではありません。神が天地万物を創造された日から、真の救い主イエス・キリストが再臨されて、世界が完成する終末までのすべての時間を指して「現在」とパウロは記しています。 しかし、今のわたしたちも、いまだイエス・キリストの再臨の日を迎えていませんので、二千年前のパウロの「現在」と同じ意味の「現在」の「苦しみ」を、わたしたちも味わっていると言えます。その「現在の苦しみ」が「取るに足りない」すなわち「大したことはない」と思える日が来るというのが、今日の箇所の趣旨です。しかし、「現在の苦しみ」が「取るに足りない」と言われると、将来は苦しくなくなるという意味なのか、それとも、もっと苦しくなるという意味なのかと考えてしまいます。 結論を言えば、両方の意味です。今より負担が大きくなり、もっと苦しくなります。しかし、それに耐えられるだけの意味や楽しみがあることを理解させていただけるので、「苦しいけれども苦しくない」という境地に達しうるという線で理解して大丈夫です。「悩みも多いが楽しく生きられるようになる」という線です。 「被造物は虚無に服しています」(20節)は、旧約聖書のコヘレトの言葉に通じます。口語訳聖書で「空の空、空の空、一切は空である」、新共同訳聖書で「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と記されているあの書物です。私が愛用するローマ書の註解書(著者レカーカーカー)に「ローマ8章20節はコヘレトの言葉の註解である」と記されていました。 「被造物」は「被選挙権」などで用いるのと同じ「被」を用いて「神によって造られたもの(物・者)」を表現しますので、当然「人間」を含みます。

新しき生(2023年11月12日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 532番 やすかれ、わが心よ  礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「新しき生」 ローマの信徒への手紙8章1~17節 関口 康 「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます。」 今日の箇所は先週の続きです。先週の箇所はローマの信徒への手紙7章7節から25節まででした。しかし、教会創立71周年記念礼拝でしたので、その主旨に基づいてお話しする部分が必要でしたので、聖書の内容について詳しくお話しすることができませんでした。 かろうじてお話しできたのは、ローマの信徒への手紙の7章から8章までをわたしたちが読むときの大前提が違っている場合がある、ということでした。2点挙げました。 ひとつは、7章だけで45回出てくる「わたし」とはだれのことか。もしパウロだけを指しているとしたら、この箇所をパウロの自叙伝として読まなければならないことになるが、それでよいか。 ふたつめは、ここに描かれている「わたし」の葛藤は、キリスト教改宗前の人が味わっていた過去の葛藤であって、キリスト教への改宗後はもはや生じることがありえないものなのか。 どちらも「違う」と私は申しました。しかもそれは聖書解釈の問題として考えるだけでなく、わたしたち自身の現実から考えるほうが理解しやすいとも申しました。わたしたちのうち誰が、教会に通いはじめ、やがて洗礼を受けてキリスト者になったので自分の罪についての悩みも苦しみもなくなったと言えるでしょうか。「そんな人はいない」と言いたいわけですが、反論があるかもしれません。「罪についての葛藤は私にはありません」と。 しかし、もしそういう人が現われたら、多くの人が困ります。「私はキリスト者だと自覚してきたつもりだが、罪の葛藤が無くなったことはない。そうでない人がいるというなら、私の信仰が足りないという意味なのか」と苦しむ人が続出するでしょう。この箇所はキリスト教改宗前のユダヤ教徒だった頃のパウロの葛藤を描いたものではないとはっきり言うことによって、多くのキリスト者が救われると私は申し上げたいのです。 キリスト者でない人がキリスト者になることだけを「救い」と呼ぶのは狭すぎますし、事実でもありません。「教会」が天国の楽園の

葛藤と隘路からの救い(2023年11月5日 昭島教会創立71周年記念礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 510番 主よ終わりまで 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード  「葛藤と隘路からの救い」 ローマの信徒への手紙7章7~25節 関口 康 「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」 今日の礼拝は昭島教会創立71周年記念礼拝です。長い間、献身的に教会を支えて来られた皆さまに心からお祝い申し上げます。 この喜ばしい記念礼拝の日にふさわしい宣教の言葉を述べるのは重い宿題です。私がその任を担うことがふさわしいと思えません。2018年4月から鈴木正三先生の後の副牧師になりました。そして2020年4月から石川献之助先生の後の主任牧師になるように言われました。2020年4月は、日本政府から「緊急事態宣言」が出され、当教会も同年4月から2か月間、各自自宅礼拝としました。また、教会学校と木曜日の聖書に学び祈る会は3か月休会しました。そのときから3年半しか経っていません。 3年間、教会から以前のような交わりが失われました。なんとかしなくてはと、苦肉の策でインターネットを利用することを役員会で決めて実行したら「インターネットに特化した牧師」という異名をいただきました。申し訳ないほど「私」の話が多くなってしまうのは、3年間、家庭訪問すらできず、皆さんに近づくことがきわめて困難で、皆さんのことがいまだにほとんど分からないままだからです。 日本語版がみすず書房から1991年に出版されたアメリカの宗教社会学者ロバート・ベラ―(1927~2013年)の『心の習慣 アメリカ個人主義のゆくえ』で著者ベラーが《記憶の共同体》という言葉を用いたのを受けて、日本のキリスト教界でも特に2000年代にこの言葉を用いて盛んに議論されていたことを思い起こします。この言葉の用い方としては、個人主義、とりわけミーイズム(自己中心主義)に抵抗する仕方で「教会は《記憶の共同体》であるべきだ」というわけです。 なぜ今その話をするのかといえば、昭島教会の現在の主任牧師は、残念なことに《記憶の共同体》としての昭島教会の皆さんとの交わりの記憶を共有していないし、共有することがきわめて困難な状況が続いていると申し上げたいからで

永遠のいのち(2023年10月29日 永眠者記念礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 434番 主よ、みもとに 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「永遠のいのち」 ヨハネによる福音書3章1~21節 関口 康 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。」 今日の礼拝は永眠者記念礼拝です。「永眠者」というのは日本キリスト教団の教会暦の表現ですが、難しい問題を含んでいます。人の死を「眠りにつく」と表現する聖書箇所はあります。たとえば、使徒パウロのコリントの信徒への手紙一15章20節には「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と記されています。 しかし、続く15章31節には「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」と記されていて、亡くなった方は永遠に眠るのではなく、眠りから覚めて復活すると教えていますので、「永眠者」という表現でよいかどうかを熟考する必要が生じます。しかし、「永眠」を「永遠に眠る」ではなく「永く眠る」という意味でとらえれば、目を覚ますときが必ず訪れることを含みますので、大きな矛盾は無くなります。 「召天」という表現については、使うべきかどうか、先日ある方から相談を受けました。この表現にも問題があります。私の知るかぎり30年以上前から議論があります。「天に召された者」という意味で用いられますが、漢文の知識がある人によると「召天」は「天を召す」としか読めない、というのが「召天」という表現を使うべきでないとする理由のひとつです。聖書で「天」は「神」の言い換え表現で用いることが多いので、「神を呼びつける者」という意味になってしまうというわけです。 しかし、主にプロテスタント教会が用いてきた「永眠」や「召天」、またカトリック教会では「帰天」という言葉が用いられますが、いずれにせよ意図していることは、人間の死を「一巻の終わり」であるとキリスト教会は考えていないことの意思表明です。わたしたちは、先に召された信仰の先達たちが、神から「永遠の命」を授かり、まさに生きておられることを信じています。そして、あとに続くわたしたちも同じ道を歩んでいると確信しています。 いま私はキリスト教主義学校で聖書科の非常

新しい時の到来(2023年10月22日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 495番 しずけきいのりの 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「新しい時の到来」 秋場治憲 コヘレトの言葉3章1~15節 前回はヨハネ福音書13章の主イエスが最後の晩餐において、弟子たちの足を一人ずつ洗い、腰に下げた手ぬぐいでその足をふかれたという出来事を学びました。十字架の死が目前となる中で、「主イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 [1] 」と語られていました。   主イエスが置かれていた状況というのは時間的に言っても、まさに最後の最後までと言うことができる状況でした。この上なく愛し抜かれたと訳されている言葉は英語では to the end  と訳されています。ギリシャ語でも同じ表現になっています。これは「最後まで」という意味と同時に、「究極まで愛された」と解することもできる言葉です。「究極まで愛された」というのは、主イエスの命の炎が燃え尽きるまで愛されたと解することが出来ると思います。愛するということは、愛される者にとっては、実に喜ばしいこと、実に甘きことです。しかし愛する者にとっては、その身を削ることとなります。一本のろうそくが周りを照らしながら、その身を燃やし尽くす譬えは、そのことを表しています。   主イエスは御自分亡き後の弟子たちを愛おしみ、彼らの足を一人一人洗われた。当時のユダヤ人たちはサンダル履きで、その足は毎日洗わなければならなかった。そして弟子たちは主イエス亡き後、自分の足を洗うたびに主イエスが自分の足を洗って下さったことを思い起こし、主の愛を確かなものとしていったのだと思います。聖餐式もこれと同じこと。私たちの足もこの時同時に洗われていたことを信じ、その主イエスの愛の万分の一でしかないけれども、その愛に励まされながら隣人に関わっていく勇気を与えられる者でありたいと思います。その意味でも最後の晩餐における出来事として、共観福音書では聖餐式でしたが、ヨハネ福音書では主イエスによる弟子たちの洗足、ここには共に相通じるものがあると思います。聖餐式も洗足も人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのであ

信徒の成長(2023年10月15日 信徒伝道週間)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 504番 主よ、み手もて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「信徒の成長」 フィリピの信徒への手紙1章1~11節 関口 康 「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」 今日は日本キリスト教団の定める「信徒伝道週間」の初日にあたり、お2人の教会員の証しを伺いました。ご準備くださったお2人に心から感謝申し上げます。 今日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節から11節までです。この手紙は使徒パウロが書いたものです。今日の箇所に記されているのは、パウロがフィリピの信徒のためにささげた祈りの言葉(9~11節)と、その祈りをささげた理由(3~8節)です。 パウロはフィリピの教会のみんなのことを思い出すたびに、神に感謝し、喜びをもって祈っていると言います(3~4節)。なぜなら、あなたがたが最初の日から今日まで福音にあずかっているからだと言います(5節)。 「最初の日」(5節)の意味は、パウロとフィリピ教会が最初に出会った日を指していません。その意味で受け取ると、私パウロと出会ったことで初めてあなたがたがイエス・キリストの福音を受け入れることができた、その日から今日に至るまで、ということにならざるをえませんので、まるでパウロの伝道者としての個人的な力量について書いているかのように読めてしまいます。 「福音」は宣べ伝えられた途端に伝道者の手を離れます。また、手を離さなければなりません。伝道者は「福音」そのものが持つ力を信頼し、「自分が宣べ伝えた、自分が教えた」という思いを捨て、教会の信徒を自分の支配から解放しなければなりません。 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)の「その方」は、神です。福音宣教の主体は、神です。神はご自身が始めたことを最後まで成し遂げてくださり、完成してくださる方であるとパウロは言っています。パウロが始めたことをパウロが完成するわけではありません。 12節の「福音の前進」も、私パウロが福音を前進させた、という意味ではない