日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 386番 人は畑をよく耕し
前回の宣教の後少ししてから、ある方から質問がありました。ヨブは苦難の中で仲保者を求めた、しかもこの仲保者が自分の味方として必ず地の上に立たれるということだったけれども、このことはヨブ記のどこに言及されているのか宣教要旨には記載されておらず、見つけることが出来ないので教えてほしいというものでした。新共同訳の言葉とは少しニュアンスが違いますので、それで見つけることが出来なかったのだと思います。これはヨブ記19:25~27に記載されている言葉です。口語訳の方が分かりやすいと思いますので、参考までにこの個所の口語訳を掲載しておきます。後でご自身で比較をしてみてください。
25節 わたしは知る
わたしをあがなう者はいきておられる、
後の日に彼は必ず地の上に立たれる。
26節 私の皮がこのように滅ぼされたのち、
わたしは肉を離れて神を見るであろう。
27節 しかもわたしの味方として見るであろう。
わたしの見る者はこれ以外のものではない。
わたしの心はこれを望んでこがれる。
ヨブは激しい苦難の中で、神と自分の間に立ってくれる仲保者を求め、しかも自分の味方として立って下さる方を待ち望んでいる。友人たちは因果応報の地番に立ち、ヨブがこのような悲惨な目にあっているのはヨブが罪を犯したからだと言って責め立てる。ヨブはそんなことは自分もよく承知していると言う。しかしヨブを打つ手は止むことがない。ヨブはこの悲惨の中で悲鳴をあげながら、彼はこの自分をあがなう者が、地の上に立たれることを切望しているのです。ここでヨブは因果応報の世界から、福音の世界へ突き抜けようとして、その出口を望み見ている。そしてよきおとずれを持ってこられる方を、待ち焦がれているのです。私たちは既にその方を知っています。聖書を通し既にこの私たちを贖ってくださった方、どこまでも私たちの味方としての救い主に出会っています。そしてその方の霊が、その方の息吹が日々私たちに向かって突入してきており、私たちを励まし、私たちと共に歩まれる。死の陰の谷を行くときも私たちと共にあることに感謝したいと思います。
「今やキリストイエスに結ばれている者は、罪に定められることがない。」(ローマ人への手紙8:1)
来週からアドベントに入ります。毎度繰り返していますが、アドベントとは英語でadventと書きます。ad(~へ向かって、英語のto)であり、ventとは(やって来る)という意味です。ヨブが、預言者たちが待ち焦がれた方が、わたしたちを目指してやってくるというのです。心の備えをして迎えたいと思います。
コヘレトの言葉2章に入りたいと思います。1章で空の空、一切は空である、と自らの言葉を開始したコヘレトは、日の下で行われる人間の様々な営みに注目し、一体それらの労苦が何になるのか、一代が過ぎればまた一代が起こる。日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南へ向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることがない。どの川も、繰り返しその道程を流れる。一切は繰り返すばかりで、その完成を見ることはないというのです。一切は実に単調な繰り返しに過ぎない。空の空、一切は空である、と言う。
しかしコヘレトは1章のまとめともいうべき言葉「神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。」と言う。それらの人の子らに与えられる労苦の一つ一つに神の御手が添えられていることを見出した。しかしこれはコヘレトがイスラエルの王として、天の下に起こるすべてを知ろうとして熱心に探究し、知恵を尽くして調べた結果でした。そこにはクリスマスの夜、寒さと獣の危険から羊を守りながら夜明けを待ち望む羊飼いたちに、天使と天の軍勢によって高らかに告げ知らされた知らせに、小躍りして喜んだ羊飼いたちの喜びはありませんでした。
私たちはコヘレトには知らされていなかった「よきおとずれ」を既に聞かされている者として、日の上におられた方がこの空しき世界に姿を現されたことを知らされた者として、空の空、一切は空であるという世界が、神がその御心を実現し給う世界であることを学んで感謝しました。ただコヘレトにはこのことは、まだ知らされてはいませんでした。
彼は人の子らのつらい務めの一つ一つに神の御手が添えられているということを学んでも、なおこのことに慰めを得ることができませんでした。「見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」というのです。
ここでコヘレトはもっと直接的に自分を満たしてくれる、人の子らが求めるべき幸福というものを追求してみようという衝動に駆り立てられます。私はさあ「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」この「快楽」は必ずしも感覚的、表面的な快楽、また悪い欲望とは限らないということです。また「愉悦」も同様に「幸いを見る、楽しむ」ということで、善と悪の倫理的対立の意味ではないというのです。神の創造の中で、すべての面で生き、かつ楽しもうと試みることである。楽しむことそれ自体は悪ではないとのこと[1]。
しかし「快楽」も「愉悦」もコヘレトの心を満たして、人生の生きる意味をもたらしてくれたかと思えば、これもまた空であり、風を捕らえるようなことであったとコヘレトは言うのです。コヘレトはその快楽と愉悦の中で得た笑いということに思いを馳せ、これは「狂気」(馬鹿げたこと)であると言い、「快楽」に対しては、これが一体何になろうと言う。
何事も知恵に聞こうとするコヘレトにとっては潔しとしないことではありますが、しかし彼はなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に思い定めたというのです。
快楽と愉悦を見たコヘレトは、一転して愚行に身を任せてみようと言う。コヘレトの知恵に基づけば、愚行に過ぎないと思われることの中にさえ彼は人の子の幸せを探し求めるのです。この言葉には彼が自分が生きることの意味を必死に探し求めるその思いを読み取ることができます。そして彼は大事業を起こして成功し、多くの屋敷を構え、ぶどう園、果樹園を作らせた。池をいくつも掘らせ、木の茂る林に水をひかせた[2]。かつてエルサレムに住んだ誰よりも多くの奴隷を所有し、牛や羊と共に所有した。人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。
彼は事業に成功し、大庭園付きの大邸宅を構えただけではなく、ぶどう園、果樹園を持ち、木を植えて林をとし、池をいくつも掘らせた。これは日本ではなくエルサレムでのこと。途方もなく贅沢なこと。当時の世界では考えられる限りの豪華な生活であり、この世の楽園とも思えるような生活です。荒れ野にサフランの花[3]が咲き乱れるがごとしと言うことができる。池を掘るということは日本では造作もない事のように思われますが、ことエルサレムとなると話は別です。旧約聖書には井戸の取り合いの記事が、しばしば登場してくる。
ソロモン王は700人の妻、即ち王妃を有し、300人の側室を有していたと、列王記上11:1以下に「ソロモン王の背信とその結果」という小見出しがついて記されています。是非お読みください。ソロモンはこの妻たちを愛してそのとりことなってしまった。神は何度もソロモンに警告をした。しかしソロモンは妻たち、側室たちのとりこになり、神の再三にわたる警告に従わず、エルサレムで高台を設け、自分たちの神々に犠牲を捧げることを許した。その結果ソロモンの死後異国の神々によって惑わされた王国は、分裂し国を亡ぼす誘因となっていくのです。
「かつてエルサレムに住んだ誰よりも多くの」というのは、彼は優越感の中にさえも人の子の幸せを探った。目に望ましく映るものは、何ひとつ拒まず手に入れ、どのような快楽も余さず試みた。コヘレトの心は労苦さえ楽しんだ。彼は労苦をも楽しみ、その結果として快楽と愉悦を得た。しかし、彼は自分が為した労苦の結果の一つ一つを顧みてみた。結果は「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。」とコヘレトは振り返る。
これは神が創造のわざを終えられた時、「神は御造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて(口語訳 はなはだ)良かった。」(創世記1:31)と記されています。しかしここでは、そうではない。神の創造のわざとは正反対。「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。」と言う。全体としてかえりみた時、彼のこのような成功は、一体何であったのか。地上の楽園とも思えるような状況の中にありながら、彼の心は満たされないのです。隙間風が彼の心の中を吹き抜けていくのです。
ここで彼は愚行から身を転じて、より高尚な知的、精神的な活動に向かいます。「私はまた、顧みて知恵を見極めようとした。」(12節)現代風に言うならば、様々な思想を学び、それらを比較検討する。人間の様々な知的活動がもたらす結実を味わい楽しむ。賢者の目はその頭(あたま)に、愚者の歩みは闇にあることを学ぶ(14節)のです。
そして彼が次に見出したことは、知者にとっても愚者にとっても、人生は同じように終わるということです。「わたしはこうつぶやいた。『愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。』これまた空しい、とわたしは思った。賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。」(15節~16節)
これが分かった時、彼は生きることに対して倦怠感を覚えるのです。
「私は生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかも私を苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。」(17節)
しかしここで彼は一瞬、自分の財産のことを思い出したようです。あるいはこれに頼って、生き甲斐を見出しえるのではないかと思ったのです。
しかし、次の瞬間、彼は自分の死後、墓の向こう側で自分が知力を尽くし、苦労して築いた財産が、他人のものになっていることを思い起こすのです。
20節以下を読むとこうあります。「太陽の下、労苦してきたことのすべてに、私の心は絶望していった。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。」と言う。
コヘレトはその生涯の活気ある時期に、自分の手で喜びを見出そうとしていそしみ励んだ。官能的悦楽、事業、豪華な生活、知的活動、みな人並み以上に追求し獲得したが、結局、彼の人生観は、虚無の感触に落ち着くのです。ことここに至れば、今風に言うならば、自殺するか、修道院に入るか、と言うことになるのかもしれない。事実教父ヒエロニムスは、このコヘレトの言葉によって、自分はこの世とこの世にあるすべてのものを軽蔑すべきことを学んだと言っている。
ところがここで、思いがけない局面が24節以下で展開するのです。私たちを驚かすのは、この新しい局面というのは、この世に対する蔑視とか、人生への虚無感とはまったく違う、別のものなのです。ここでは修道院や自殺のことではなく、人が再び、この人生の日常の生活に立ち返ることが述べられている。何も肩をいからせたり、力んだりせず、落ち着いて、私たちの日常の生活に立ち返ることが述べられている。
「人間にとって最も良いのは、飲み食いし自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、私の見たところでは神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ。」(新共同訳2:24・25)
「人は食い飲みし、その労苦によって得たもので、心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、私は見た。誰が神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。」(口語訳 2:24・25)
労苦によって得たもので心を楽しませるという人生に対する肯定的な発言は、どこからでてくるのであろうか。その出所は今読んだ言葉の後半部分にあります。「それらは神の手からいただくもの」だからであるというのです。
人生は空の空なのだから、我らは食い、飲みし、歌って踊って楽しもうではないか、という刹那的な享楽主義ではない。享楽主義者はそれが、神の手から出ているなどとは言わない。私たちが従事している仕事、日々家庭において行っているすべてのこと、これらはすべて神の手から出ていることを私コヘレトは見たというのです。
これまでコヘレトは自分で幸福を作り出そう、見出そうとして、死力を振り絞って探究してきた。それは自己実現を目指したものと言い換えることもできるでしょう。しかしそこにあったものは、空しさだけであった。彼はこの空しさは神によって満たされるのでなければ、永遠に満たされるものではないことに気づかされるのです。
アダムとエバも自分たちが神に守られていることに気づかず、自分の手で「善悪を知る木」の実に手を伸ばしたのです。神と等しくなろう、神と並ぶものになろう、更には神を超える者になろう、更には自分が神にとって代わろうという思いがそこにはあった。コヘレトは自分がまさに、アダムとエバが犯した罪を自ら犯してしまっていたことに気付かされたのかもしれません。彼は自分が傲慢であったことに気づかされるのです。
「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは、天地を造られた主のもとから来る。」という詩篇121篇の言葉を思い起こしたのかもしれない。
次の新共同訳の25節の言葉は唐突なような感じが致します。しかも命令形で出ています。「自分で食べて、自分で味わえ。」というのです。これは24節の「神の手からいただくもの」を自分で食べて、自分で味わってみるのでなければ、この真理は分からないというのです。口語訳は「誰が神を離れて食い、かつ楽しむことのできる者があろう。」と訳されています。
彼のこの空しさは、神によって満たされるのでないならば、一切の空しさから抜け出すことはできないということに彼は気づかされたのです。これは彼の一大転機、彼のターニングポイントとなりました。そしてそれまで能動的であったコヘレトは、受動的なコヘレトに変えられます。ここには自分自身に絶望したコヘレトがいます。彼に課せられた労苦も含めて、神によって与えられていることに気付かされたコヘレトは、感謝と充足感を覚えるのです。自らの積極的な探究に疲れ果てたコヘレトは、神の癒しを素直に受け入れられる者に変えられています。
先週関口先生が宣教の中で、「神は私たちに贈り物を与える前に、まず私たちの内にあるものをお壊しになる性分をお持ちなのです。」という注解者の言葉を引用されておりましたが、今少しコヘレトが生きることにも倦怠感を覚えるほどに絶望の極みに達したことに関連してお話ししてみたいと思います。この破壊活動は我らの肉の思いに対して実行されるのです。我らが尊ぶ我らの自由意志、理性、知恵、知識、思いに対してこの破壊活動は実行されるのです。それは我らが神の恵みに対して最も感応しやすくなるためであり、我らの心の隅々にまで神の愛が染みわたるようになるためです。なぜなら肉の思いは、神の贈り物を受け取ることができないからです。神はその恵みを与える前に、私たちの中にある肉の思いを打ち砕くのです。それは取りも直さず、神の贈り物を恵みとして、無代価で私たちに与えるために他なりません。
神の愛のわざが神の本来のわざであるとするなら、我らには怒りとさえ見える神のわざは神の非本来的なわざであり、ルターはこれを神の「異なるわざ」と呼んでいます。神はその本来のわざを為したもうために、その異なるわざ、即ち破壊活動を遂行されるのです。ルターは神の異なるわざは神の本来的なわざを遂行するための手段である、マスクにすぎないと言うのです。神の怒りの背後に神の愛をみるのです。ルターはイザヤ書28:21の言葉を引用してこのことを説明しています。
「主はベラツィム山のときのように立ち上がり
ギブオンの谷のときのように憤られる。
それは御業を果たされるため。
しかし、その御業は未知のもの。
また、働きをされるため。
しかし、その働きは敵意あるもの。[4]」(新共同訳)
要するに神はイスラエルをその本来の民に立ち返らせるために、彼らにに対して敵対的になられるという個所です。ルターはこの個所をローマ書講義の中で、イザヤ書28:21を「主はそのみわざを遂行するために、主にとっては異なるわざをなしたもう[5]」と訳しています。また詩篇103篇11節を引用して「地よりも高い天の高さに従って、(すなわち、我らの思いに従わずに)、主は我らに対するいつくしみを強めたもうた。」と述べています。
神はコヘレトの思いには従わず、その向かった先はことごとく空しさの風を吹きさらし、彼の思いを超えて、今や一切が神の御手から出ていることを知らしめるのです。この恵みは自分で食べて、自分で味わう以外に知ることはできないというのはコヘレトの実感だったでしょう。神を離れては池を作って、庭を設計し、知的活動に専心しても、それは空しいというのです。神は一切において一切を為したもうと言うのです。この神が私たちに敵対しているかのように思われる時、神がその異なる業を為したもう時も、神は我らを捨ててしまったのではなく、もっとも近くにいましたもうというのは、ルターが主の十字架から学んだことです。
2章の最後の説になりました。26節です。「神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。」
『善人』と訳されている言葉は、道徳的な善悪ということよりも、神に『恵まれた』『喜ばれる』人に近い。[6]」ということです。また「悪人」という言葉に関しても、「道徳的内包を持たない。『目的を誤る』原義(目標を逸れる)に近い」と言うことです。「的を外す」というのは、私たちがしばしば聞かされているように、ギリシャ語のハマルティア 「罪」という意味です。口語訳は「罪人」と訳しています。「神は、その心に適う人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪人には仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜るためである。」と。これはやはりコヘレトの限界です。ヨブが悩まされた友人たちが主張した因果応報の世界が広がっています。
神はこの罪人に課せられた制限を取り払い、「大いなる喜び」「まったき喜び」をもたらされた。まさにこの罪人を目指して、神の独り子がベツレヘムの馬小屋で誕生した。もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、その心にかなう者すべてにもたらされた喜びをあなたがたに伝えるというメッセージを私たちは野宿していた羊飼いと共に聞くのです。
「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。』[7]」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心にかなう人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、
「さあ、ベツレヘムへ行って主がお知らせくださったその出来事を見てこようではないか[8]」と喜びに満たされた羊飼いたちと共に、私たちもこの方をお迎えしたいと思います。
ヨブが、また多くの預言者たちが待ち焦がれながら、見ることが出来なかった方が、この地上にその姿を現されたのです。大いなる喜びの到来に感謝したいと思います。
[1] 「コヘレトの言葉」注解 西村俊昭著 日本基督教団出版局 p。129
[2] 「目で見る聖書の時代」月本昭男 写真 横山匡(ただし)日本基督教団出版局
ソロモン王の時代メギド、ハツォル、ゲゼルなどの町々が再建されましたが、(列王記上9章15節)、これらの町の遺跡からは、岩盤をうがって造られた縦穴と坑道を通って城壁内から地下水を汲みに行ける、りっぱな給水施設が発見されました。給水施設とならんで、汚水溝も整備されていました。ゲゼルでは城門の下に、メギドでは城壁の下に排水溝が造られ、汚水が城外に流れ出るようになっていました。P.17
[3] イザヤ書35:1・2新共同訳はサフランではなく、野ばらになっている。
[4] 口語訳はこの最後の言葉「敵意あるもの」を、「そのわざは異なったものである」と訳しています。
[5]イザヤ書28:21及び詩篇103:11節 「世界の名著 ルター」笠利 尚訳 中央公論社P.447
[6] 「コーヘレトの言葉」注解 西村俊昭著 日本基督教団出版局 P.183
[7] ルカ福音書2:10