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4月, 2022の投稿を表示しています

復活のイエス(2022年4月24日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 地よ、声たかく 326番(1、3節) 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3617号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「復活のイエス」 秋場治憲伝道師 ヨハネによる福音書20章19~31節 「シオンの娘よ、喜び歌え。私が来て、あなたの中に住むからである」ゼカリヤ書2章10節(口語訳、新共同訳では2章14節)  今日の聖書のテキストは、先週に続くヨハネ福音書20章19節から31節までですが、私はこのトマスの出来事とマグダラのマリアの出来事がセットで考えられるべきと思われて仕方がない。それは甦った主イエスの二人に対する対応が、極めて対照的だからです。しかもそれら二つの出来事が同じ章にあるということは、ヨハネはこれら二つの出来事はセットで考えられるべきであると言っているように思わされてならないのです。それで今日のトマスの出来事をマリアの出来事と比較するという視点から見てみたいと思います。 ここには主イエスが復活したということが記されています。私たちは面食らいます。自然科学と科学技術を学んできた私たちの心に去来することは、「そんなことはあり得ない」ということではないでしょうか。そもそも「復活」とは何なのでしょうか。聖書が言うこの出来事は、歴史的出来事なのでしょうか。 私たちが主と仰ぐイエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)と二度までも叫び、十字架の上で息を引き取られ、墓に葬られたのです。ヨハネ福音書によれば、ローマの兵士が「槍でイエスのわき腹を刺した [1] 」と記されています。11人 (ユダは既に死亡している) の弟子たちは皆逃げ去り、誰も残ってはいませんでした。主イエスの遺体を十字架から取り降ろすのをピラトに願い出たのは、何と「イエスの弟子でありながらユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」 (ヨハネ福音書19:38) アリマタヤのヨセフ [2] であったと伝えています。そこに律法学者ニコデモが没薬と沈香を混ぜた物を百リトラほど持ってやって来た。この二人によってイエスの遺体は、

ウクライナのビザンツ=スラブ式ミサ

富栄徳さんが動画を編集してご提供くださいました。「『ウクライナのビザンツ=スラブ式ミサ』より『信仰宣言』『主の祈り』の部分を紹介します。60年ほど前の音源です。ウクライナに一日も早く平和が戻ることを祈ります」(富栄さん)。ありがとうございます!

わたしは主を見ました(2022年4月17日 イースター)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 キリスト・イエスは 325番(1、3番) 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3616号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「わたしは主を見ました」 ヨハネによる福音書20章1~18節 関口 康 「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」 イースターおめでとうございます。今日はイエス・キリストの復活をお祝いするイースターの礼拝です。 昨日のことです。礼拝看板を林芳子さんに書いていただいたとき、「イースターとカタカナで書いてください」とお願いしました。日本国内で、教会以外の場所で「イースター」が知られるようになっているからです。 突然の勢いだったことをよく覚えています。「イースター」が大きく取り上げられるようになったのは最近です。正確な時期を調べてみたらだいたい私の記憶通りでした。2010年に千葉県浦安市にある東京ディズニーランドが「ディズニー・イースター・ワンダーランド」というテレビコマーシャルを大々的に展開して以来です。当時私は千葉県松戸市に住んでいて同じ千葉県の東京ディズニーランドの動きに関心がありましたので、その衝撃を体で覚えています。 つまり、まだわずか12年前です。世界のキリスト教の歴史はもちろんですが、日本のキリスト教の歴史と比べてもごく最近のことです。教会の常識が社会の常識になるまでにどれほど時間がかかるかを思わされる一例です。 しかし、日本国内で急激に「イースター」という言葉が知られるようになってからも、しばらくは、それが何を意味するかの説明が不足していました。私ははっきり覚えていますが、インターネットで「イースター」を調べても、まるでキリスト教と無関係であるかのような記事をよく見かけました。 ところが、今は事情が一変しています。一般的な製菓会社や旅行会社が、イースターとキリスト教の関係を明確に書いてくれています。正しい理解が進むのはありがたいことです。 例を挙げておきます。ある製菓会社のホームページに次のように記されています。「日本では、まだあまり広

祈りの家(2022年4月10日 聖日礼拝)

宣教「祈りの家」関口康牧師 讃美歌21 うつりゆく世にも 299番(1、4節) 奏楽・長井志保乃さん、字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3615号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます  「祈りの家」 マルコによる福音書11章15~19節 関口 康 「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」 今日の聖書の箇所は、時代や状況にかかわらず読みにくいし、話しにくい内容を含んでいます。最も端的にいえば、イエスさまが誰の目で見ても明らかな仕方で暴力行為に及ばれました。 事の発端はイエスさまと弟子たちがエルサレムに到着され、エルサレム神殿の境内に入られたことです。そのとき初めてご覧になったわけではなく、ずっと前から同じ光景だったに違いありませんが、神殿の境内で商売をしていた人たちをイエスさまが力ずくで追い出され始めました。「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返され」(15節)ました。「境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」(16節)とも記されています。 この事件は4つの福音書すべてが記しています。ヨハネによる福音書には「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒した」(2章15節)ことまで記されています。 「縄で鞭を作られた」という点は特に重要です。意図的ではなかった、あくまで偶然の出来事だったという言い逃れは成り立ちません。明確な意図があり、激しい感情を伴い、物理的な暴力をもって、神殿から商売人と商売道具のすべてを排除されました。 改めて読んで気づかされたことがあります。4つの福音書に共通しています。この行為に及んだのはイエスさまだけでした。「イエスが」したと記されているだけです。12人の弟子は暴力に加担していません。加担していたら「イエスと弟子たちが」したと記されるはずですが、そう書かれていません。弟子たちは黙って見ていただけでした。加担した証拠がありません。 しかし、もしそうなら、なおさら考えさせられます。イエスさまおひとりだけであれば、被害を受けた商売人や買い物客や通行人が大声で叫んで「この人を捕まえてください」と訴えれば、即刻ローマ兵がかけつけ

謙遜と和解(2022年4月3日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 十字架のもとに 300番(1、3節) 奏楽・長井志保乃さん、字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3614号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「謙遜と和解」 マルコによる福音書10章35~45節 関口 康 「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」 今日の箇所のイエスさまは、弟子たちと一緒にエルサレムへと向かわれる途中です。マルコによる福音書では11章から16章に、イエスさまがエルサレムに到着されてから十字架の死と復活までの出来事が描かれていますが、今日は10章です。まだエルサレムに到着しておられません。 旅の途中、直前の段落の中で、イエスさまが弟子たちに御自分に起ころうとしていることを、たとえを用いずはっきりと語られました。「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(33~34節)。 なぜイエスさまは、まだ事実が起こる前にこのようなことをご存じだったのかと、詮索してはいけないと私は思いませんが、満足できる答えが与えられることはないでしょう。しかし、このことを私たち自身に引き寄せて考えてみれば、意外なほど、私たちは自分の身に将来起こること予測しながら生きていることに気づくでしょう。 しかもその際、多くのケースで「人生経験」が物を言います。石川先生と私を比較するような言い方をするのはおこがましいですが、共通点は、東京神学大学を卒業した24歳から今日まで、牧師ひと筋で生きてきたことです。石川先生は71年、私は32年です。 なぜ石川先生と私の「人生経験」の話をするのかといえば、理由は2つです。ひとつは、私はともかく、石川先生ほどの人生経験があれば、イエスさまと全く同じではないとしても、かなり「これから自分に起こること」を予測できるようになると申し上げるためです。前向きな話です。 しかし、もうひとつの理由は、石川先生ではなく、私のお詫びです。牧師ひと筋で生きてきた者たちにとって、