宣教「神、我らと共にいます」 秋場治憲(あきば はるのり)兄 讃美歌21 280番 馬槽のなかに 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3596号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「神、我らと共にいます」 マタイによる福音書1章18~25節 昭島教会 秋場治憲兄 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」 今日はアドベント第1主日、アドベントの季節に入って迎える最初の聖日ということになります。では、そもそもアドベントとはいったい何なのだろうか、そういう疑問がわいてきます。アドベントというのはラテン語のadvenio(アドベニオー)という言葉に由来しています。これは「近づく」「到着する」「やって来る」という意味の動詞です。Ad というのは英語のtoに当たる言葉で~の方へ、~に向かってという接頭語です。これにvenio という「やって来る」という動詞がつながった形です。ではいったい何が何に向かってやって来るのか、ということになります。聖書は神の子が私たち一人一人を目指してやって来る、やって来たのだ、と宣言しているのです。 私たちはよく神とは何であるのか、とよく考える。哲学者たちも考える。では聖書は何と言っているのか。聖書は「神は愛である 」と証言しています。愛というのは一人では成立しません。そこには必ず「愛する者」と「愛される者」が大前提として含まれています。この関係から愛を切り離して、神だけを捉えようとするのが哲学であり思弁 と言われるものです。私たちはこの哲学的な思弁に引き込まれないように、気を付けなければなりません。神を客体化して眺めることはあっても、その神によって慰められたり、励まされることはない。キリスト教の神、聖書の神は「愛である」とは、必ずそこには相手がいるということです。そして愛するということは、その相手に連帯化するということ、その相手の立場に立つということです。「人間を愛する神」と「神によって愛される人間」が大前提として含まれているということです。 アダム以来罪の縄目に打ちひしがれている者たちを、神の...