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弟子の足を洗う(2023年9月24日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 475番 あめなるよろこび 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「弟子の足を洗う」 ヨハネによる福音書13章1~20節 秋場治憲 「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」  今日の聖書テキストは主イエスが最後の晩餐において、弟子たちの足を洗うという出来事です。この出来事はヨハネ福音書だけにでてくる出来事で、他の福音書には出てきません。最後の晩餐については、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とヨハネ福音書では、その内容に違いがあります。共観福音書では最後の晩餐において、聖餐式の制定 [1] が為されていますが、ヨハネ福音書では主イエスが弟子たちの足を洗っています。  また共観福音書では最後の晩餐が、過越しの食事であり、十字架刑はその翌日になっているのに対して、ヨハネ福音書では最後の晩餐は過越しの食事の前 [2] になっており、十字架刑はまさに神殿で過越し祭の子羊が屠られる時に設定されています。  これは共観福音書では聖餐式をキリスト教における過越しとみなしたのに対して、ヨハネ福音書では「見よ、世の罪を取り除きたもう神の子羊だ。」とバプテスマのヨハネが1:29で語っているように、<イエス=世の罪を取り除き給う神の子羊>というテーマで貫かれており、それ故に十字架刑は過越しの子羊が屠られるその時でなければならなかったのです。 その為には最後の晩餐は、過越しの子羊が屠られる前でなければなりませんでした。どちらが史実かということについては、今のところ確かめる資料はございませんが、それは課題として保持しながら、それぞれの主張から学べばいいことではないかと思います。  それでは <世の罪を取り除き給う神の子羊> とは、どういうことなのでしょうか。このことを考えるために二つの出来事を覚えておきたいと思います。第一点はこのことの起源は出エジプト記にあります。イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出するに先立って、エジプト中に疫病をもたらしたり、雹を降らせたり、イナゴの大軍を発生させたりしましたが、ファラオは彼らを去らせませんでした。最後に神は傷のない一歳の雄の子羊の血を家の二本の柱とかもいに塗ることを命じられました。

愛はすべてを完成させるきずな(2023年9月17日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 520番 真実に清く生きたい 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「愛はすべてを完成させるきずな」 コロサイの信徒への手紙3章12~17節 関口 康 「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」 コロサイの信徒への手紙3章12節から17節を開いていただきました。最初に申し上げたいことは、今日の箇所に限らず、コロサイの信徒への手紙の全体に書かれていることはすべて「教会」に関することであり、しかも具体的な現実としての「キリスト者同士の交わりとしての教会」のあり方に関することである、ということです。 16節以下に「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と記されています。「キリストの言葉」とは聖書に基づく説教を指していると言いたいところですが、この手紙が書かれた当時は「新約聖書」は存在せず、あったのは「旧約聖書」だけでした。 しかし、イエス・キリストが多くの人々の前で、または12人の使徒たちの前でお語りになった言葉は口づてに、または文書として教会に伝えられていました。それがなければ、その後の教会が「新約聖書」をまとめることはできませんでした。教会は「新約聖書」の成立以前からイエス・キリストの言葉を知っていました。 その言葉が「あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」と勧められているのは聖書の知識を増やすべきだということではなく、イエス・キリストにおいて現わされた神の御心があたかも自分自身の心になったかのように自分のからだと心に浸透させ、現実生活を御言葉通りに生きてみる、という意味です。 また、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」とあるのは教会の具体的な交わりそのものです。「互いに教え」の「互いに」や、「諭し合い」の「合い」が大切です。一方通行ではなく相互関係です。教会はミーティングであり、コミュニケーションが交わされます。それが大事です。 過去3年、コロナ禍で教会の最も大事な要素であるミーティングとコミュニケーションが破壊された感がありました。全世界の教会が同じ状況でした。インターネットのやりとりでも十分に代用できる

十字架を背負う教会(2023年9月10日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 430番 とびらの外に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「十字架を背負う教会」 ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節 関口 康 「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」 先週は夏期休暇を取らせていただき、別の教会の礼拝に出席させていただきました。どの教会に行くか考えていたとき■さんのお怪我の話を伺い、にじのいえ信愛荘でも聖日礼拝が行われているので、ご出席なさってはと、おすすめをいただきました。 そうしようと思い、にじのいえ信愛荘に電話したところ、■先生ご夫妻は療養のため別のところにおられると教えていただきましたので断念し、別の教会に出席しました。 「のんびりできたか」とお尋ねがありましたが、あまり休めませんでした。文句を言っているわけではありません。私が行った教会の牧師もずいぶん疲れておられる様子で、私も同じだなと、いろいろ考えさせられる機会になりました。 今日開いていただいた聖書の箇所は、これも日本キリスト教団聖書日課に基づいて選びました。聖書日課には「十字架を背負う」とだけ書かれていましたが、私が「教会」という言葉を加えて「十字架を背負う教会」としました。 この箇所は使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙の結びの部分です。「パウロが書いた」と言ったばかりですが、11節の意味は、パウロ自身が自分の手で書いた部分は今日の箇所だけだということです。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」というのは、この箇所より前の部分は別の人に書いてもらっていた、という意味です。 つまり口述筆記です。パウロが口で話すことを書記役の人に書いてもらっていました。しかし、手紙の最後の部分だけは自筆で書きます、しかも大きな字で書きますというのは、手紙ですから「声を大にして言う」ことはできませんが、これだけは分かってほしいと、パウロが強調したい内容を書いた部分であるという意味です。 パウロは何をそれほど強調したがっているのかといえば、ひと言でいえば、教会の中に分裂が起こっているが、

我は聖なる公同の教会を信ず(2023年9月3日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 403番 聞けよ、愛と真理の 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「我は聖なる公同の教会を信ず」 コリントの信徒への手紙一12章12~27節 秋場治憲伝道師 「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です」 (コリントの信徒への手紙一12章27節) 「また、御子はその体である教会の頭です」 (コロサイの信徒への手紙1章18節)    私たちは「さあ、使徒信条を学ぼう」といって、使徒信条を学び始めた訳ではありません。ヨハネ福音書の後半部分を読みながら、その都度、事柄が関連する時に言及してきたところです。私たちはこの使徒信条を毎週、自分自身の信仰として告白しています。多くの方が「主の祈り」同様に、既に暗唱しておられることと思います。今まで学んできたことは、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず (現在形) 、我はその独り子我らの主イエス・キリストを信ず (現在形) 、主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり (完了形) 、全能の父なる神の右に座したまえり (現在形) 、かしこよりきたりて、生けるものと死ねるものとを裁きたまわん (未来形) 、と、ここまでだったと思います。ただ聖霊については、度々言及してきたところです。神は完了形で表された事柄により、私たちをご自身と和解させられました。そして御子イエス・キリストは神の右に座すものとされ、再び来たりたもう日に向けて日夜我らの罪を執り成してくださっているということでした。ここが今現在、私たちが置かれている所。神が私たちに対して既に成し遂げて下さったこと、そして将来に向けての約束のもとに、今現在の私たちを支えておられるというのです。   ここからは神が私たちに対して成し遂げて下さったことを受けて、それに対する私たちの信仰告白です。「我は聖霊を信ず」で始まります。よみがえられた主イエスが、狼狽する弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われる。罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、父なる神の怒りに打ち勝った主イエスの霊を受けよと言うのです。この霊の導きのもとに私