日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 475番 あめなるよろこび
今日の聖書テキストは主イエスが最後の晩餐において、弟子たちの足を洗うという出来事です。この出来事はヨハネ福音書だけにでてくる出来事で、他の福音書には出てきません。最後の晩餐については、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とヨハネ福音書では、その内容に違いがあります。共観福音書では最後の晩餐において、聖餐式の制定[1]が為されていますが、ヨハネ福音書では主イエスが弟子たちの足を洗っています。
また共観福音書では最後の晩餐が、過越しの食事であり、十字架刑はその翌日になっているのに対して、ヨハネ福音書では最後の晩餐は過越しの食事の前[2]になっており、十字架刑はまさに神殿で過越し祭の子羊が屠られる時に設定されています。
これは共観福音書では聖餐式をキリスト教における過越しとみなしたのに対して、ヨハネ福音書では「見よ、世の罪を取り除きたもう神の子羊だ。」とバプテスマのヨハネが1:29で語っているように、<イエス=世の罪を取り除き給う神の子羊>というテーマで貫かれており、それ故に十字架刑は過越しの子羊が屠られるその時でなければならなかったのです。
その為には最後の晩餐は、過越しの子羊が屠られる前でなければなりませんでした。どちらが史実かということについては、今のところ確かめる資料はございませんが、それは課題として保持しながら、それぞれの主張から学べばいいことではないかと思います。
それでは<世の罪を取り除き給う神の子羊>とは、どういうことなのでしょうか。このことを考えるために二つの出来事を覚えておきたいと思います。第一点はこのことの起源は出エジプト記にあります。イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出するに先立って、エジプト中に疫病をもたらしたり、雹を降らせたり、イナゴの大軍を発生させたりしましたが、ファラオは彼らを去らせませんでした。最後に神は傷のない一歳の雄の子羊の血を家の二本の柱とかもいに塗ることを命じられました。(出エ12章)そして神は子羊の血が塗られた家の前は過越し、血の塗られていない家の初子はすべて打たれた。エジプト王ファラオの初子も例外ではなかった。ファラオは夜のうちにモーセを呼び出し、一刻も早くエジプトを去ることを願った。この時イスラエルの人々は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いで出立したということが記されています。これが過越しの祭りにおいて子羊が屠られ、酵母の入っていないパンを食する習慣となりました。過越しの祭りとその食事は、このことをいつまでも感謝し、覚えておくための祭りです。イスラエルにとってはもっとも大切な祭りで、この祭りのために世界中から多くの人々がエルサレムに参集してきていました。これがそのままペンテコステの状況につながります。
第二点は「子羊の血」に関することで、イザヤ書53章(旧P.1150)にあります。皆様よくご存じの「苦難の僕」と言われるイザヤ書の言葉です。時間の関係ですべてを読むことは出来ませんが、中核部分を読んでみたいと思います。
4.彼が担ったのは私たちの病
彼が負ったのは私たちの痛みであったのに
私たちは思っていた。
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
5.彼が刺し貫かれたのは
私たちの背(そむ)きのためであり
彼が打ち砕(くだ)かれたのは
私たちの咎(とが)のためであった。
彼の受けた懲(こ)らしめによって
私たちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。
6.私たちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
その私たちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
10.病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望むことは
彼の手によって成し遂げられる。
私たちの一切の罪、一切の不義を彼の上に置き、そしてこれを打ち砕くことによって私たちの罪と不義の一切が赦されるという預言をしています。聖餐式というのはこの二本の柱とかもいに塗られた子羊の血が、イスラエルの民を神の怒りから守られたということです。
共観福音書とヨハネ福音書では、その内容(聖餐の制定と洗足)という違いはあるとしても、主イエスと弟子たちの最後の晩餐であるという点においては同じです。そこで今日のテキストですが、ヨハネ福音書ではこの主イエスの洗足という行為が、聖餐の制定に匹敵する出来事として位置づけられているということが分かります。言葉を変えれば聖餐の意味を説明している出来事ということもできるでしょう。
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」と聖書は告げています。しかし、彼が置かれている状況は、彼を憎み彼に敵対する人々によって、あらゆる力を奪われて、今、まさに処刑されようとしている。そのような時に、彼(主イエス)の目は、そのような人間の目が見るのとは全く別なものを見ておられるということに注目した方がおられます。[3]刀折れ、矢尽き、詮方つくれどもなお希望を失わず、という世界がある。この言葉を読んでいて、私は遠藤さんのことを思い出した。遠藤さんは最後に「神の国への凱旋です」と言い残して旅立ちました。遠藤さんも全く別な景色を見ていたのだと思います。主イエスと同じ景色を見ておられたのかもしれません。門脇さんは「あなたが私を選んだのではない。他ならぬこの私があなたを選んだのだ」という言葉に慰められながら、やはり別の景色をみておられたのだと思います。二人とも私たちに多くの信仰の糧を残していかれた信仰の人でした。信仰の目とは人間の目が見るのとは異なった別の景色をみることと言えると思います。
4節、5節を読みますと、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」とあります。これは典型的な奴隷のしぐさと言われています。しかしユダヤ人の奴隷は、この仕事を免ぜられていたといわれています。それほどユダヤ人はプライドを重んじた民族であったわけです。足を洗うのは、異邦人奴隷に課せられていたとのこと。しかし、主イエスは今や、そのような業をここで為されるのです。もうすぐクリスマスですがベツレヘムの馬小屋に生まれた神の子は、今や、弟子たちの足を洗ってその生涯を終えようとしておられるのです。
この個所を読んでいて分かることは、このように低き所におられるにもかかわらず、主イエスが語っておられることは、最初から最後まで威厳に満ち、抗(あらが)い難い力に溢れているということです。
弟子たちの足を洗いながら、ペテロの番になった。ペテロは「主よ、あなたが私の足をあらってくださるのですか。」と言った。「我が主」が、「我が師」が、奴隷の仕事である弟子の足を洗うなんて、まして私の足を洗うなんて、あってはならないことですと言うのです。
それに対して主イエスは、「私のしていることは、今のあなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」と言われた。他の弟子たちは黙って主イエスに足を洗ってもらいましたが、率直で、素直で思ったことはすぐ口をついて出てくるペテロは、「私の足など、決して洗わないでください」と言うのです。これに対して主イエスの答えは、驚くべきものでした。「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる」というのです。この言葉は私はあなたの足を洗うために来たのだということになります。「私の足など、決して洗わないでください」ということは、主イエスが人となり、この世に来られたことの使命を拒否することになることをペテロはまだ理解していません。主イエスが求めておられるのは、私たちが罪なき者になることではなく、罪を赦されながら、足の汚れを洗っていただきながら信仰に生きることです。
しかし、この言葉に驚いたペテロは、「主よ、足だけでなく、手も頭も。」洗ってくださいと言った。ペテロの応答については、色々な見解がありますが、彼一流の率直さから出たユーモラスな一場面であるのだと思います。しかし、このユーモラスな発言も他の福音書を参考にするとき、私たちに多くの事を教えてくれる言葉でもあります。
13:8の言葉は、私たちにとって極めて教訓的です。私とのかかわり、人と人の関わりは、互いに足を洗い合う点において成り立つというのです。もし人がバラバラに存在するのではなく、人の間に、互いに関わりをもって生きることが出来るとすれば、その関わり合いは、支配と隷属の関係で成り立つのではない、というのです。強制の原理ではなく、自発的、積極的に互いの足を洗い合うという点においてこそ成り立つというのです。
このことは「今はあなたに分かるまいが、後で、分かるようになる」とは、この後、主の十字架があり、そこから逃げ出した自分があり、よみがえりの主に出会い、聖霊が注がれるまでその意味は隠されていたのです。主イエスが弟子たちの足を洗われたのは、代わりにその汚れを自らに負い、その足に釘が打ち込まれるという刑罰を代わって引き受けられたということです。イザヤ書の言葉を思い出して下さい。「その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」とあります。また、コロサイ書2:13b以下には、「神は、私たちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」と記されています。私たちの足の汚れはきれいにされた。しかしそれは、私たちに代わってその汚れを負った足に、釘が打ち込まれるという刑罰と引き換えであったというのです。このようなことが私たちがまだ罪人であった時、何も知らなかった時に、既に成し遂げられていたというのです。
ペテロがこのことを理解するには、主イエスが言われたように、しばしの時が必要でした。ペテロも他の弟子たちも、聖霊が臨むまで、この主イエスの洗足という行為の意味を、理解することはできませんでした。
しかし、このことを誰一人理解していなかった時に、一人直感的にこのことを悟っていたと思われる人がいました。主イエスの膝元で、じっくりと主の言葉に耳を傾けてきたマリアです。この記事は今日のテキストの前の章、12章に記されています。彼女は弟ラザロがよみがえらされた時、主イエスとラザロの間で、命の交換が行われたこと、主イエスの十字架を悟ったのだと思われます。それ故に彼女は純粋で高価なナルドの香油を、前もって準備をしておき、間もなく釘が打ち込まれるであろう主の足に、それを惜しげもなく注ぎ出し、その足を自分の髪で拭いたのです。一リトラの香油とは、聖書巻末の換算表を見ると326グラムとなっています。相当な量です。その香りは部屋中に満ちたことでしょう。私は香水とか香料などとは、縁のない生活をしていますが、それでもわずか一滴の香水が放つ香りがどれほどのものであるかを想像するくらいのことはできます。それを326グラムとは。イスカリオッテのユダにしてみれば、「もったいない。なぜそれを売って貧しい人たちに・・・」ということになるのでしょう。しかし私たちの一切の罪を代わって引き受けて下さった方に、何をもってしても十分な償いなどできるはずもないのです。「もったいない」というユダに対して、それでも「十分ではない」というマリアの間には、天地の差があります。属している世界が違うと言えるかもしれません。
マリアは自分の思いのありったけをナルドの香油に込めて、主イエスの足に注いだのだと思います。主イエスはマリアの行為を前もって予期しておられたように、その行為を受け入れられた。「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(12:7)と。マリアと主イエスの間には、間もなく訪れる十字架が共有されていたのではないかと思われる場面です。
私たちは祈りの最後に必ず、「主イエス・キリストによって」という短い言葉を枕詞のように使います。これは私たちの信仰は、仲保者を必要としているということです。「主よ信じます。信仰なき私をお助け下さい。」とは、私たちの実態は罪人であり、完全な信仰は持ちえない者であるということです。主イエス・キリストが私たちの足を洗ってくださって、傷なき者として神の御前に立たしめ、受け入れて下さることを信じて祈りをささげますということです。
「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」このことは、今の私たちには「洗礼」と考えていいと思います。洗礼によって全身がきれいにされた者であるけれども、それでも生きている限りは日々罪にまみれざるを得ない。日々の生活の中で私たちの足は否応なく汚れます。あなたがたはその汚れに押しつぶされることなく、私についてきなさい。あなたの日々の汚れは私が引き受けたのだから、新しい夜明けに向かってさあ、あなたの船をこぎ出しなさいというのです。
「主イエスは世にいる(残る)弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」という言葉は、自分なき後の弟子たちが、直面する様々な困難に押しつぶされることなく、信仰を失うことなく、勇気をもって歩んでいくことができるようにと最後まで配慮されたということです。
主と呼ばれ、先生と呼ばれる私があなたがたの足を洗ったのだから、あなた方も出来る限り、互いの足を洗い合いなさいというのです。ここには一人で生きるのではなく、仲間を得て互いに足を洗い合いなさい。そこには互いに励まし合い、いたわり合う世界が生まれるというのです。これは律法的な意味ではなく、自分の足を洗ってきれいにしていただいたことへの感謝の思いから、その喜びをもって互いに仕え合いなさいというのです。
私たちは福音書を読んでいながら、そこから律法を作り出す場合が多い。聖書はそのように読んではならないのです。よい教師は子供を励まし、子供に自信を持たせると言われる。キリストの福音とはまさにそのようなものなのです。
旧約聖書は律法に従って我が民であるなら、私はあなた方の神でいよう、というものでした。しかし新約聖書の世界は、いなくなった一匹を見つけるまで探しまわる方が来られたことを知らせています。この方が傷ついた羊を見つけ、肩に担いで連れ帰ってくださる。私たちは最初から一点の非の打ちどころもないようなことはできません。それでも弟子たちの足を洗い、今も私たちの足を洗い続けていてくださるイエス様に励まされるというのです。
ルターの言葉をかりれば、彼は力強い主でありたもうたが故に、仕える者として、僕(しもべ)の業を為したもうたというのです。弱き者たちの弱さを担い、仕えることが力強いことである。というのです。
来週は世界聖餐日であり、私たちの教会でも聖餐式を行います。
主イエスがその生涯の最後に弟子たちに、そして私たちに伝えたかったことは、あなたの命はたった一つの命であり、それはこの地球よりも重たいということです。なぜなら、怖れと不安に翻弄される命がよみがえり、新たな命に生きるために、神の独り子が差し出されたからです。主イエスの洗足の行為に秘められた十字架のあがない、罪の赦しとは、さあ、あなたはきれいになった。あなたの汚れはすべて私が引き受けたのだから、胸を張って、心勇ましく、小さくていい、あなたの一歩を踏み出しなさいというメッセージをいただくことです。来週世界中で持たれる聖餐式に連なる一人一人の上に豊かな祝福がありますように。
[1] マタイ26:26以下、ルカ22:15以下、マルコ14:22以下
マルコ福音書では「取りなさい。これは私の体である。」また杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である。」となっています。マタイ、ルカもほぼ同じです。
[2] 今日のテキストの冒頭の言葉13:1は「さて、過越し祭の前のことである。」という言葉から始まっています。最後のページに図を添付してあります。理解の助けになると思います。図説 新約聖書の歴史と文化 M.ジョーンズ編 左近義慈(サコンヨシシゲ)佐々木敏郎(ササキ トシオ)松本富士夫(マツモト フジオ)新教出版社