日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 475番 あめなるよろこび (1、4節) 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3639号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「生きてはたらく信仰」 マタイによる福音書25章14~30節 秋場治憲 「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。わたしたちはすでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである」ヨハネの手紙一3章1節(口語訳) 今日のテキストもとても有名なお話です。今司会者に読んでいただきましたが、「タラントンのたとえ」として、多くの人たちによく知られているお話です。マタイ福音書では主イエスの十字架への道行の最後の部分に位置付けられており、次の章ではユダの裏切り、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、逮捕へと続きます。マタイ福音書においては主イエスのまとまった教えは、この「タラントンのたとえ」が最後になります。そういう意味では、非常に緊張感に満ちた中で語られたお話です。また前回直前にある「十人の乙女のたとえ」をお話した時には、信仰ということに重きを置き、主の再臨については言及致しませんでしたが、今日の「タラントンのたとえ」は、「十人の乙女のたとえ」の最後の言葉(13節)「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからである。」を受けて、「 なぜなら 天の国はまた次のようにたとえられる。 (からである。 ) [1] 」と始まり、なぜ目を覚ましていなければならないのかという理由として述べられているからです。聖書にはこの「なぜなら γαρ (ガル)~からである」が訳出されていませんので、タラントンのたとえが独立した記事のような印象を受けますが、実際は「十人の乙女」の最後の言葉を受けてその理由を述べたお話として位置付けられています。あなたがたはその日、その時を知らないのだから、主が再び来られる日に向けて備えをしなさい、なぜなら、その日には審きが行われるからである、というのです。使徒信条によれば「かしこよりきたりて生けるものと死ねるもの