スキップしてメイン コンテンツに移動

真心をこめて(2022年9月18日 聖日礼拝)

昭島教会の教職(左から関口康、石川献之助、秋場治憲)

讃美歌21 520番 真実に清く生きたい(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん




「真心をこめて」

マルコによる福音書12章35~44節

関口 康

「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。』」

今日の箇所は先週の続きです。3つの段落を朗読していただきました。イエスさまはエルサレム神殿の境内におられます。イエスさまが何をお語りになり、何をなさったかが記されています。

35節以下の段落でイエスさまは、ひとつの問題を取り上げておられます。それは「メシア」についてユダヤ教の律法学者が誤った見解を主張していたことに対する反論です。

当時のユダヤ教の人々は「メシア」が来ることを信じていました。「メシア」(マーシーアハ)はヘブライ語で、ギリシア語訳が「キリスト」(クリストゥス)ですので、彼らが「キリスト」の到来を信じていたと言っても同じです。

ただし、彼らにとって「メシア」は人間であり、しかも「ダビデの子孫」でした。「ダビデ」は紀元前11世紀に建国されたイスラエル王国の第2代国王です。ダビデの国王在位は紀元前1000年ごろから967年まで。当時のユダヤ教の理解では、「ダビデの子孫」として生まれる「メシア」は、ユダヤ人をローマ帝国の支配から解放して独立国家を打ち立てる王となるべき存在でした。

「メシア」が「ダビデの子孫」であることの根拠はすべて旧約聖書の言葉です。イザヤ書11章1~10節(「エッサイの株」)、エレミヤ書23章5節(「わたしはダビデのために若枝を起こす」)、エレミヤ書33章15節(「わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる」)、エレミヤ書33章17節(「ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は絶えることがない」)、エゼキエル書3章23節(「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである」)、エゼキエル書3章24節「わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる」)、詩編89編21節(「わたしはわたしの僕ダビデを見いだし、彼に聖なる油を注いだ」)。

イエスさまは「メシア」が「ダビデの子孫」であること自体については反論しておられません。この信仰は初代教会にも受け継がれました。ローマの信徒への手紙1章3節(「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」)、テモテへの手紙二2章8節(「この方はダビデの子孫で、死者の中から復活された」)、ヨハネの黙示録5章5節(「ダビデのひこばえが勝利を得た」)が証拠です。

イエスさまがおっしゃっているのは、「メシア」は単なる「ダビデの子孫」ではなく「主」でもあるということです。「主」はヤーウェ、すなわち神です。メシアは「神」です。そのことを証明するために、イエスさまが詩編110編1節を引用しておられます。旧約聖書(952ページ)のほうを読むと「ダビデの詩、賛歌。わが主に賜った主の御言葉」と記されています。これが「メシア」が「主」であることの根拠であると、イエスさまがお示しになりました。

代々のキリスト教会の信仰によれば、イエス・キリストは父・子・聖霊なる三位一体の神です。イエス・キリストは単なる人間ではなく神です。そのことをイエスさま御自身が述べられたことが証言されています。

38節以下の段落でイエスさまは、律法学者たちを激しく非難しておられます。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(37~40節)。

前の段落のイエスさまは律法学者の〝教え〟の間違いを指摘しておられますが、この段落では彼らの〝生活〟の間違いを指摘しておられます。ここまで言われれば彼らは激怒したでしょうし、関係修復は不可能です。そのことをイエスさまは恐れておられません。旧約聖書の預言者の姿を彷彿します(アモス書全体、エレミヤ書3章、エゼキエル書8章、13章、34章など)。

イエスさまが抗議しておられるのは、彼らの見せかけの真面目さと偽善です。目立ちたがり、注目を集めたがり、尊敬されたがるエゴイズムです。「やもめ」(40節)は戦争や病気や事故などで配偶者と死別した女性です。その女性を律法学者が「食い物にする」とは、自分の身の回りの世話をさせたり、当時のユダヤ教ではラビが報酬を受け取ることは禁じられていましたが、その規定を無視して報酬を受け取ったりしているという意味です(Bolkestein, ebd. P. 283)。

旧約聖書には「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない」(出エジプト記22章22節)、「〔主は〕孤児と寡婦の権利を守る」(申命記10章18節)と明記されています。しかし、律法学者は貧しい女性たちを犠牲にしているというのが、イエスさまのおっしゃっていることの趣旨です。

ぞっとするほど激しいイエスさまの言葉を読んだ後、41節以下の段落を読むと、ほっとします。イエスさまがひとりの女性を擁護しておられるお姿が描かれているからです。

当時のエルサレム神殿は、紀元前63年に王位についたヘロデ大王が修復したものです。入口の階段を上ると最初に異邦人でもだれでも入れる庭があり、次にユダヤ人だけが入れる庭があり、その次に祭司だけが入れる庭があったそうです。そして、その先に「聖所」があり、いちばん奥に「至聖所」があるという構造です。

二番目の「ユダヤ人だけが入れる庭」に異邦人が入ると死刑でした。そしてそこは「女性の庭」とも呼ばれました。祭司は男性なので、「祭司の庭」よりも奥は男性しか入れなかったからです。これで分かるのは、このときイエスさまは、その「女性の庭」におられたようだということです。

その「女性の庭」に宝物庫と、ラッパ形の 13 個の賽銭箱があり、祭司の助けを借りてお金を入れることができました(Strack-Billerbeck II, p. 37. Vlg.)。しかも、お金を入れる人や、祭司に手渡すお金の金額を誰でも見ることができました。それは一種の見世物で、献金の金額の見せ合いの場でもありえました。そのほうが競争心を煽り、たくさん献金が集まるからでしょう。

その様子をイエスさまがご覧になっていました。お金持ちの人がたくさん献金しました。その次に「一人の貧しいやもめ」が「レプトン銅貨2枚」を献金しました。当時の最小の銅貨でした。

新共同訳聖書巻末付録「度量衡および通貨」によれば「1レプトン=1デナリオン(1日の労働賃金)÷128」です。わたしたちの「100円」に満たない銅貨2枚です。しかし、イエスさまは、それがあの女性にとっては「乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費の全部」(44節)であるとおっしゃいました。イエスさまは金額でなく、その人の真心を評価してくださいました。

イエスさまは「生活費の全部」をささげることが大事であるとおっしゃっているでしょうか。同じことがわたしたちにも求められているでしょうか。違います。イエスさまは貧しい人が衆人の目にさらされ、はずかしめられる状態にあることを非難し、屈辱に堪えているひとりの女性を全力で擁護され、その女性のひとりの人間としての尊厳をお守りになったのです。

わたしたちはどうでしょうか。教会はどうでしょうか。はずかしめを受けていると感じている方がおられるようでしたら、教会のあり方を反省し、改革しなくてはなりません。

(2022年9月18日 聖日礼拝)

このブログの人気の投稿

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽の中に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「栄光は主にあれ」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (2023年8月27日 聖日礼拝)

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で