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イエスは復活また命 (2021年4月25日 主日礼拝)

  日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3565号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「イエスは復活また命」 ヨハネによる福音書11章17~27節 関口 康 「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」 今日も皆様にお集まりいただき、感謝いたします。今日から5月11日まで東京、大阪、兵庫、京都への緊急事態宣言が出たということを知らずにいるわけではありません。どうかくれぐれも各自でお気をつけくださいと申し上げるほかはありません。教会は現時点では礼拝堂を閉鎖する考えはありません。しかし警戒と対策を続けていく所存です。 例外なくすべての教会は、いつからか始まった存在です。この教会では石川先生がご自身でなさったとおっしゃる「開拓伝道」の時期が、すべての教会の歴史の最初にありました。最初から大勢の人が集まって始まった教会がないわけではないでしょう。しかし、教会の中には、本当に最初はひとりだったというところもあるでしょう。 私も31年前、1990年3月に東京神学大学大学院を卒業した翌月から、日本キリスト教団南国教会に赴任し、当時の鈴木實牧師と共に南国教会の開拓伝道所である南国教会大津伝道所を立ち上げる働きに就きました。 鈴木牧師が南国教会の主任牧師であると共に、南国教会大津伝道所のほうの兼務担任教師になりました。私は南国教会大津伝道所のほうの主任担任教師であると共に南国教会のほうの兼務担任教師となりました。そのような「たすき掛け」などと呼ばれることがある方式で、2つの教会を2人の教師が牧会する形で、開拓伝道に従事しました。 その意味では、石川先生が昭島教会の開拓伝道をなさったというのと内容的に同じことを私もさせていただいた経験があると言えます。それで、私にも体験があるのは、とにかく教会は何もないところから始まるものだ、ということです。 そして、その事実に基づいて今の緊急事態の中で私なりに言いうることは、決して不遜な意味で申し上げるのではありませんが、教会の礼拝に

新しい命(2021年4月18日 主日礼拝)

讃美歌21 327番 すべての民よ、よろこべ 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3564号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「新しい命」 コロサイの信徒への手紙3章1~11節 関口 康 「さて、あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。」 先週予告した今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書でした。しかし、コロサイの信徒への手紙に変更しました。変更の理由は、実際に読んでみてピンとくる箇所でなかったからです。 もう少し丁寧にいえば、マタイによる福音書のその箇所は、イエスさまが厳しい裁きの言葉をお語りになっている箇所だったからです。しかし、今のわたしたちは、裁きの言葉に耐えられません。慰めと励ましの言葉が必要です。そう思いましたので、変更しました。 タイトルは変更していません。むしろ今日選んだ聖書の箇所のほうが先週予告した「新しい命」というタイトルにふさわしい内容です。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます」から始まる箇所です。これは驚くべき言葉ですが、裁きの言葉ではありません。とらえ方によっては厳しい内容であると感じられる面がないわけではありませんが、まさにとらえ方の問題です。 「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(3節)とありますが、これは何のことでしょうか。わたしたちは死んだのでしょうか。「いや、まだ生きている」としか言いようがないでしょう。 少し前に説明があります。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(2章11節)と記されています。いろんなことが書かれていますが、すべては一度に同時に起きることです。それはわたしたちが洗礼を受けることです。洗礼を受けるとは死ぬことである、というのです。 「ちょっと待ってくれ」と言いた

復活顕現(2021年4月11日 主日礼拝)

イースター礼拝(4月4日)の週報 讃美歌21 326番 地よ、声高く 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3563号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「復活顕現」 マタイによる福音書28章11~20節 関口 康 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」 先週のイースター礼拝を大勢の兄弟姉妹と共に行うことができたことをうれしく思っています。石川先生もおっしゃいましたが、私も同感だったのは「これほど多くの方が来られると予想していなかった」ということです。 失礼な意味で申し上げているつもりはありません。ちょうど1年前のイースター礼拝は各自自宅礼拝でした。新型コロナウィルス感染症の脅威から身を避けなくてはならない状況であることは、昨年も今年もなんら変わっていません。 しかし、1年前と今で変わったのは、全く未知の存在をただ恐れるだけの状態ではなくなった、ということでしょう。対策の方法を学びました。対策をしっかり行えば、完全に安心であるとは言えないとしても、全く集会が不可能であると考えなくてはならないほどまでではないということが分かってきた、というところでしょうか。 あとひとつ、この1年でわたしたちが学んだのは、言葉にすると感傷的に響くかもしれませんが、各自自宅礼拝はやはり寂しい、ということでしょう。マスクをつけ、手指を消毒し、互いに距離をとり、会話を少なめにする。このようなことをしながらであっても、共に相集い、安否を確認し合い、目と目で通じ合う。 この目に見える関係としての教会の存在が、わたしたちにとってはやはりかけがえのないものであるということを、1年かけて学んだという言い方ができないでしょうか。そうであると私がただ思い込んでいるだけでしょうか。皆さんにぜひ教えていただきたいことです。 イエス・キリストの復活。無理やり結びつけるつもりはありません。しかし、十字架につけられて確かに殺され死んだイエス・キリストが復活し、弟子たちの前にお姿を現されたということを弟子たちが信じ、宣べ伝えました。その出来事が聖書という形で、今日まで伝えられています。 そのイエス・キリストの復活を信じる信仰をわたしたちが持つこと、その信

イエスの復活(2021年4月4日 イースター礼拝)

石川献之助牧師 讃美歌21 325番 キリスト・イエスは 奏楽・長井志保乃さん 讃美歌21 300番 十字架のもとに 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「イエスの復活」 ヨハネによる福音書20章 1~18節 牧師 石川献之助 今年も主イエスの御復活の喜びを、互いに交わしあいたいと思います。私共の信ずる福音には、主イエスの復活の信仰があります。その信仰をより確かなものとするために、今日の復活節礼拝に心から熱き想いをもって臨み、信仰を新たにされたいと思います。  本日は、ヨハネによる福音書20章1~18節までの御言葉が与えられています。通常復活節に 読まれることが多い聖書の箇所です。ここには、マグダラのマリヤが復活された主イエスと初めて出会う事実が記されています。ユダヤ地方にはマリヤという名前の女性はとても多いと言われています。しかしこの女性があのマグダラのマリヤであったことを特に意識するときに、この出会いは特別の意味をもつものであることを痛感するのであります。 弟子たちさえ逃げ去った主イエスの十字架の下には、マグダラのマリヤが大きな畏れを抱きながらも、聖母マリヤと共に従いました。そのマグダラのマリヤが主イエスから離れず、墓場にまで、それも朝早く主イエスのもとを訪ねたのです。聖書には「週の初めの 日 、まだ暗いうちに、マグダラのマリヤは墓に行った。」(1節)と書かれています。 当時のパレスチナでは、死体が墓に納められてから三日後に愛する者の墓を訪問することが習慣だったそうです。土曜日が安息日であったので日曜日の朝早い時間に、マリヤは主イエスへの思いからじっとしていることができず、かけつけたことが想像されます。 マグダラのマリヤについて、 ルカによる福音書8章1節~3節において、「 七つの悪霊を追い出していただい たマグダラの女と呼ばれるマリヤ」と言う記述が登場します。主イエスによって、悪霊を追い出し病気をいやしていただいた何人かの女性の一人に、マグダラのマリヤがいました。これらの婦人たちと一緒に、主イエス の福音伝道 の旅を支え、一行に奉仕をしていたと書かれています。 主イエスと出会い 、病気が癒され、あるいは自分の罪の許しを経験した者は、自分の罪が