日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 351番 せいなるせいなる 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3570号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「神の富」 エフェソの信徒への手紙1章3~14節 関口 康 「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」 東京他に対する政府の緊急事態宣言がまた延長されました。しかし今、東京の現実は、飲食店の席に間仕切りが置かれ、閉店時刻が早まり、アルコールの提供が中止されていること、そして外出中のすべての人がマスクをしていること、さらに特に学校の現場において毎年の恒例行事であるような体育祭や修学旅行のようなことが次々に中止されていることを除けば、以前の状況とほとんど変わりない状態に戻っています。そのことを私は善いとも悪いとも判断できずにいます。 なぜこの話をするのかといえば、教会はどうすべきかの判断が求められているからです。教会で何かが起これば牧師が責任をとらされることを心配しているのだろうという詮索は心外です。ただ、昨年度1年間の経験を踏まえて今思うのは、教会が率先してやめましょう、閉じましょうの一点張りで動き始めると、そのまま教会の活動自体が終わってしまうだろうということです。なぜなら教会は、義務や責任で縛られて成り立つ存在ではなく、各自の信仰に基づいて全く自由で自発的に集まることによって成り立つ存在だからです。 何が起こるか分からないから礼拝堂に集まってのすべての活動を中止するとすれば、たしかにクラスター発生の責任を回避できるものがあります。しかし、教会の責任ということを強く言うべきことがあるとすれば、神を求める人々の信仰と生活、なかんずく孤独や孤立を余儀なくされ、寂しさを抱えている人々への配慮と支えに対する責任が教会にあると言わなくてはなりません。 その面の埋め合わせが、教会以外の他の何かでできるなら、とっくの昔に教会は役割を終えていたでしょう。他に代わるものがないからこそ、教会に活路を見出し、助けと救いを求めてきたのが私たちの体験的な事実ではないでしょ...