スキップしてメイン コンテンツに移動

神の富(2021年5月30日 三位一体主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 351番 せいなるせいなる 奏楽・長井志保乃さん


「神の富」

エフェソの信徒への手紙1章3~14節

関口 康

「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」

東京他に対する政府の緊急事態宣言がまた延長されました。しかし今、東京の現実は、飲食店の席に間仕切りが置かれ、閉店時刻が早まり、アルコールの提供が中止されていること、そして外出中のすべての人がマスクをしていること、さらに特に学校の現場において毎年の恒例行事であるような体育祭や修学旅行のようなことが次々に中止されていることを除けば、以前の状況とほとんど変わりない状態に戻っています。そのことを私は善いとも悪いとも判断できずにいます。

なぜこの話をするのかといえば、教会はどうすべきかの判断が求められているからです。教会で何かが起これば牧師が責任をとらされることを心配しているのだろうという詮索は心外です。ただ、昨年度1年間の経験を踏まえて今思うのは、教会が率先してやめましょう、閉じましょうの一点張りで動き始めると、そのまま教会の活動自体が終わってしまうだろうということです。なぜなら教会は、義務や責任で縛られて成り立つ存在ではなく、各自の信仰に基づいて全く自由で自発的に集まることによって成り立つ存在だからです。

何が起こるか分からないから礼拝堂に集まってのすべての活動を中止するとすれば、たしかにクラスター発生の責任を回避できるものがあります。しかし、教会の責任ということを強く言うべきことがあるとすれば、神を求める人々の信仰と生活、なかんずく孤独や孤立を余儀なくされ、寂しさを抱えている人々への配慮と支えに対する責任が教会にあると言わなくてはなりません。

その面の埋め合わせが、教会以外の他の何かでできるなら、とっくの昔に教会は役割を終えていたでしょう。他に代わるものがないからこそ、教会に活路を見出し、助けと救いを求めてきたのが私たちの体験的な事実ではないでしょうか。

今日の聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙1章3節から14節までです。表題に「手紙」とあり、送り主が「使徒であるパウロ」と記されています。しかし今日の聖書学者の多くは、これは手紙ではないし、著者はパウロではないとします。

理由として挙げられるのは、使徒パウロの代表的な手紙であるローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙などと比べて、エフェソの信徒への手紙の内容がきわめて抽象的であるという点です。もし著者が本当にパウロであるなら、エフェソの教会が置かれていた状況や、その教会に属する人々についての個別の事実を知らないはずがないにもかかわらず、それらの事柄への言及が全く無い。また、有力ないくつかの写本の中に宛て先の「エフェソ」という地名が記されていないものがある、など。

これが「パウロの手紙」でないなら何なのかといえば、聖書学者たちの意見によれば、パウロの影響を強く受けた別の人によって、当時の地中海沿岸地域の複数の教会で回覧され、各教会の礼拝の中で朗読される文書として書かれたものだろう、ということになります。

私はその意見に反対する理由は無いと考えています。しかし、パウロの影響を強く受けているという点まで否定する意見に接したことはありません。その意味では、他のパウロの手紙と内容的に通じ合っている文書であるとは言えるので、相互に関連づけて語ることも可能です。

そして今日の朗読箇所である1章3節から14節までに記されていることで最も大切な一文は、冒頭の「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(3節)であるということを確認することが重要です。この「天のあらゆる霊的な祝福」の「霊的」の意味は「聖霊による」です。言い換えれば「神は、キリストにおいて、聖霊によって、わたしたちを天のすべての祝福で満たしてくださいました」と言われています。

つまりここに父・子・聖霊なる三位一体の神の働きが記されているということです。「三位一体」という言葉は新約聖書の中に登場するわけではなく、ずっと後の時代の教会で用いられるようになったものですが、キリストと聖霊が父なる神と等しい位格を持つ存在であることが新約聖書の中に全く根拠がないなどということは全くできません。

そして今日の箇所に表現されている深い思想の核心部分は、神が、イエス・キリストにおいて、聖霊によって、わたしたちを天地創造の前からあらかじめお選びになり、そのわたしたちを神の御子イエス・キリストの血によって贖ってくださり、神の子としてくださり、そのわたしたちが頭(かしら)であるキリストのもとにひとつにまとめられ、神の国を受け継ぎ、永遠に神の栄光をたたえる者とされる、ということです。

「天地創造の前」(4節)とは何を意味するのでしょうか。私たちの想像力をゆうに超えるものがあります。天も地も創造される前には何もありませんし、時間もありません。時間も神に創造されたものです。

その創造以前、時間以前、歴史以前に、父なる神だけでなく、イエス・キリストがすでにおられ、聖霊なる神がおられ、その父・子・聖霊がわたしたちを、創造以前、時間以前、歴史以前、つまり永遠の次元においてあらかじめ選んでおられた、というのですから驚きです。

そして、その永遠の次元において選ばれたわたしたちが、頭なるキリストのもとに集められた、キリストの体なる教会であるということを、この箇所が語ろうとしていることは明らかです。

しかし、このようなことを言いますと、それは選民思想だろうと反発を受けることがあります。教会に属するキリスト者である人たちだけが神から特別扱いされていて、他の人々はそうでないとでも言いたいのか、と。

しかし、それは誤解なのです。今日の箇所で、あるいは聖書の中で「天地創造の前に」という点が強調されるときの意図は、「すべては神の恵みである」ということを言いたいだけです。人間のいかなる努力や信心や功徳によらない、ということです。

そして、今日の箇所で繰り返されている「わたしたち」が誰を指すかは限定されていません。すべての人に開かれています。この箇所の「わたしたち」の中に私がいると信じることは、だれにでもできます。「私は含まれていないかもしれない」と考える必要は全くありません。

「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ」(6節)と記されています。恵みは「あふれて」います。小さな器の中にとどまっていません。全人類を満たしても余りある神の豊かな恵みから私だけ外されている、と考えるべきではありません。

しかし、この箇所ではっきり分かるのは、教会の使命は何なのかということです。神の栄光をたたえることです。それは主の日ごとに守られる礼拝において集中的に表現されます。

「各自自宅礼拝」には意味がないと申し上げるつもりはありません。しかし、「天にあるものも地にあるものも、キリストのもとにひとつにまとめられる」(10節)ということを体験的事実として味わうことができるのは、「対面礼拝」ならでは、です。対策をとり、互いに気を付けながら、共に集まる礼拝、共に生きる生活を続けて行こうではありませんか。

(2021年5月30日)


このブログの人気の投稿

十字架のキリスト(2023年4月2日 棕櫚の主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 300番 十字架のもとに 週報ダウンロード 宣教ダウンロード 「十字架のキリスト」 ルカによる福音書23章32~49節 関口 康 「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」 今日の聖書箇所についての説教は、 昨年11月20日の主日礼拝 でしたばかりです。4か月しか経っていません。「また同じ箇所か」と思われる方がおられるかもしれません。 私はそのことを忘れて、今日この箇所を選んだわけではありません。受難節と復活節が毎年巡って来ることは分かっていますので、そのとき改めて取り上げようと考え、 昨年11月20日の礼拝 では、深く立ち入らないで残した箇所があります。 それはゴルゴタの丘にイエスさまと2人の犯罪人がはりつけにされた「3本の十字架」が立てられたことについてです。そのことをすべての福音書が記しています。「犯罪人たち」(κακούργοι)と記しているのは、ルカ(23章32節、33節、39節)だけです。マタイ(27章38節)とマルコ(15章27節)は「強盗たち」(λησταί, ληστάς)。ヨハネ(19章18節)は「二人」(δύο)と記しているだけです。 そして、ルカによる福音書には3人とも十字架にはりつけにされた状態のままの、イエスさまと2人の犯罪人の対話が記されていますが、他の福音書にはそのようなことは何も記されていません。その対話の内容を知ることができるのは、今日開いている箇所だけです。 対話の内容はわたしたちが繰り返し学んできたとおりです。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ』」(39節)。 「自分を救え」は英語でセーブ・ユアセルフです。今日の箇所に3回繰り返されます。最初はユダヤ最高法院の議員たち(35節)。2度目はローマ軍の兵士たち(37節)。3度目がこの犯罪人です(39節)。 「世界を救え」はセーブ・ザ・ワールド、「子どもたちを救え」をセーブ・ザ・チルドレン。それと同じ言い方ですが、イエスさまに向けられた言葉は罵倒と嘲笑です。 あなたは自称メシアだろう。それなのに惨めだね。あなたは世界を救えない。ユダヤ人も救えない。異邦人も救えない。せめて自分ぐらい救

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で