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父への道(2021年5月2日 主日礼拝)

石川献之助牧師

讃美歌21 390番 主は教会の基となり 奏楽・長井志保乃さん
「 父への道 」

ヨハネによる福音書14章1~11節
 牧師 石川献之助

昨日より暦は5月に入りました。本日は日本キリスト教団の教会歴によりますと、主イエス様の復活節第5主日であります。

聖書の箇所は、ヨハネによる福音書14章 1 節からの御言葉が与えられております。そこでは「心を騒がせるな」という語りかけから始まっております。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家に
は住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言っ
たであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来てあなたがたをわ
たしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
(1~3節)

5月は私にとりましては、この世に産まれた誕生の月でもあります。誕生の月を迎える高齢の私個人に、主が語りかけておられるように、この御言葉をききとる思いがしております。

主イエスは十字架の死が間近に迫っていることを心に留めて、弟子たちに沢山の大切な事をお話になりました。その中でペトロの「主よ、どこへ行かれるのですか。」(13 章 36~38節)から始まる問いに続く箇所が今日の御言葉です。

主イエスは「私の父の家には住む所がたくさんある」(2 節)と語りかけて下さいます。主イエスは、私たちが後についていけるように、天と父なる神に至る道しるべをつけて下さったのです。私たちの死後についての不安に対して、主イエスのおられる永遠の住まいである天にお迎えいただくことを約束して下さっている事は、大きな慰めであると思います。

ユダヤ教の支配下にある、ユダヤにおける主イエスの活動は、多くの批判と問題に妨げられていました。その中で弟子たちに共通する不安は、これから自分たちはどこに向かって歩むのか、誰にもわからない中に置かれていたということです。

また、主イエスを失った後の将来についても不安を感じていたと思われます。主イエスはご自身をおつかわしになった父のもとへ行こうとしておられるのであり、父と主イエスは一つであると、弟子たちに繰り返し語られましたが、弟子たちはついに理解することができなかったのです。主イエスがこれから通ろうとしている道、その道のために十字架があるということなど、さらに理解することは難しかったのでしょう。

トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」(5 節)とさらに尋ねました。続いて主イエスは言われました。
 
「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節)

なんという大きな慰めでしょう。主イエスのみが、神へ至る道であります。主イエスにおい
てのみ、わたしたちは神がいかなるお方であるかを知ることが出来るのです。

この問いは、今の私たちにとっても同じであるのです。当時の弟子たちの置かれていた状況は時代的にもあまりにも違いがありますが、私たちは生活の不安の上に、命の不安に怯えながら限りある命を生きているという現代の人生の側面からは、共通点も見出すことができます。私たちが生きようとしている将来は、正に様々な不安に満ちたものではないでしょうか。

私たちは一人ひとり、各々の心を騒がせる課題を抱えながら生きています。主イエスの言われた永遠の命を生きるべく、主イエスの救いに希望を見出すことが求められているのです。このことに心を向けながら、信仰に生きる主イエスが本当に与えようとしている救いに与りたいと願う者であります。この「心を騒がせるな」との主の御声に耳を傾け、主を信頼し心を整えながら、平安を与えられ歩んでいきたいとの思いを新たにした次第です。

私たちはこの世の一回限りの人生において、どこに向かって生きていくのでしょうか。ここにこそ、私たちキリスト者の希望があるのです。私たちには永遠の命が希望として与えられているということを、忘れずに歩んでいきたいと思います。

(2021年5月2日 主日礼拝)


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