日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13) 讃美歌21 298番 ああ主は誰(た)がため 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「十字架への道」 マタイによる福音書27章32~56節 関口 康 「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。 」 今日の聖書の箇所に記されているのは、イエス・キリストが十字架上で処刑される場面です。想像するだけで体と心が凍ります。もっとも、書かれていること以上は分かりませんので、これから申し上げることの多くは私の想像です。 兵士たちがシモンという名のキレネ人にイエスの十字架を無理に担がせたとあるのは、その前にイエスさまが鞭で打たれたり葦の棒で頭を叩き続けられたりしていたために、重い十字架の木材を背負って歩くのが難しくなっていたからではないでしょうか。つまり、もう歩けなくなっているイエスさまを無理に歩かせるためです。イエスさまを助けたがっているわけではありません。 処刑場についたときに彼らがイエスさまに苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたのは、麻酔的な意味があったでしょう。アルコールの摂取が痛みの緩和になるかどうかは分かりません。しかしイエスさまはそれを拒否されました。すべての痛みをお引き受けになるためだったと解釈されることがありますが、それすら想像の域を超えません。 「彼らはイエスを十字架につけると」と淡々と事実だけが記されています。現代の作家のような人たちなら、もっと詳しく細かく描こうとするのではないでしょうか。イエスさまの手や足に釘を打つ槌音、痛みに悶えるイエスさまの表情や絶叫。そのようなことは一切記されていません。音も声も聞こえてこない、まるで一枚の絵画や写真を見ているかのようです。 しかしその一方で今日の箇所にしきりと描かれているのは、十字架につけられたイエスさまの周りにいる人たちの言葉や態度や表情です。イエスさまご自身が苦しくないはずがないのですが、そのことは描かれず、代わりにイエスさまの周りの人たちの様子が多く描かれています。 兵士たちがくじを引いてイエスさまの服を分け合う様子にしても、十字架