スキップしてメイン コンテンツに移動

十字架の勝利(2021年3月21日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13)

  
讃美歌21 306番 あなたもそこにいたのか 奏楽・長井志保乃さん

「十字架の勝利」

マタイによる福音書20章20~28節

関口 康

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」

今日の礼拝後、2020年度第2回教会定期総会を行います。教会総会のたびに申し上げていることを繰り返します。教会のすべての会議は礼拝をもって始められるべきです。しかし、教会総会を日曜日に行う場合は、主日公同礼拝を教会総会の「開会礼拝」とみなすことが可能です。

今日行う教会総会の議題は2つです。役員改選の件と、新年度教職体制の件です。「その他」と記しましたが、教会総会議員である教会員の側から今日の教会総会で扱うべき議案があるという提案がなされた場合に、それを議事にすることができるという意味です。ただし、それは教会総会の開会宣言の後に行う議案確定のとき提案された場合に限ります。次から次へと思いつきの提案が後から出されても議事として取り扱うことはできません。そのことはご承知置きください。

議事の内容を先取りするようなことを、いま申し上げるつもりはありません。具体的なこと、実際的なことについては、教会総会の中で共に考えるべきことです。それよりもいま申し上げておくべきことは、根本的なこと、本質的なことです。教会役員とは何か、教会の教職と呼ばれる牧師とは何かということです。そしてこの2つの問いに集約されるのは、そもそも教会とは何かという、より大きな問いです。そういうことをあらかじめ考えたうえで、先ほど申し上げた2つの議題を取り扱う今日の教会総会に臨むべきです。

しかし、これから私が「教会論」をお話ししようとしているわけではありません。「教会役員論」でも「牧師論」でもありません。乱暴な言い方をお許しいただけば、そんなことはどうでもいいです。大切なのは神さまとの関係です。神さまの前でわたしたちひとりひとりがどのように考え、語り、行動するかです。

今日の聖書の箇所はいつものとおり教団の聖書日課を参考にして選んだものですが、今日こそわたしたちが考えるべき最も大切なテーマが記されているということを深く感じました。神さまがわたしたちに「今日この言葉を聞きなさい」と呼びかけておられます。そのように感じました。

ゼベダイの息子たちの母が、その2人の息子と一緒にイエスのところに来てひれ伏してお願いしようとしたというのです。「ゼベダイ」と「2人の息子」は、いま開いているマタイによる福音書の4章21節に登場します。それはイエスさまが宣教活動の初めにまず4人の弟子をお選びになる場面です。「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ」(4章18節)、そして「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」(4章21節)です。4人とも漁師でした。

ですから今日の箇所の「ゼベダイの息子たちの母」(20節)は漁師ゼベダイの妻であり、「2人の息子」(同節)はヤコブとヨハネです。そのゼベダイの妻であり、ヤコブとヨハネの母である人がイエスさまのところに来てお願いしました。

お願いの内容は要するに、イエスさまが国王になられたときに、うちの息子たちをあなたの右と左に座らせると約束してほしいということでした。ぴったりとは当てはまりませんが、イエスさまの学校に大切な子どもを2人も入学させた親が「うちの子に最優秀の成績をつけてください」とお願いしているようなものだと考えれば、少し分かりやすくなるかもしれません。

「了解しました」とイエスさまはお答えになりませんでした。そうではなく「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」(22節)とお答えになりました。このイエスさまのお答えが「当然だ」と思われる方と「厳しすぎる」と思われる方とに分かれるかもしれません。それは《イエスさまの立場》に立って考えるか《親の立場》に立って考えるかによるでしょう。

《親の立場》を先に考えてみます。ゼベダイの妻でありヤコブとヨハネの母の立場としては、自分のお腹を痛めて産み、心血を注いで育てた子どもたちが2人もイエスさまに取り上げられたという気持ちだったかもしれません。「こんなとんでもないことになったのは、ある意味でイエスさま、あなたのせいです。私の命に代えても惜しくない子どもをあなたに差し上げたのだから、その代価を払ってほしい」と言いたい気持ちがあったかもしれません。

しかしイエスさまはその願いを突き放されます。そして「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22節)と言われます。その「杯」の中身が直前の箇所に記されています。イエスさまが12人の弟子を呼び寄せておっしゃったことです。「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである」(20章17~19節)。

これはイエスさまのことです。私はこれから死刑を受ける。その前に屈辱を受ける。そのためにエルサレムに向かっているとおっしゃっているわけです。そういうことをあなたがたは堪えられるか、耐えられないだろうと問われているのが「杯を飲むことができるか」の意味です。

すると、ヤコブとヨハネは口を揃えて「できます」と答えます。実際にはできないのですが。できなくてもいいのですが。十字架の苦しみはイエスさまがおひとりで背負われました。しかし、できなくてもいいし、事実としてできなかったことを「できます」と言ってしまうのが、愚かと言えば愚か。浅はかと言えば浅はか。弱さと罪をまとうわたしたち人間の姿そのものでしょう。

いま申し上げている問題は大切です。しかしそれ以上に大切な問題があります。それはイエスさまの弟子であることの意味は何なのかという問題です。

その答えは、彼らが考えたように「(1)イエスさまのように偉くなるために上に向かう階段を昇っていくこと」ではありません(×)。正解は「(2)イエスさまのように屈辱を受けるために下に向かう階段を降りていくこと」(〇)です。イエスさまのように徹底的にへりくだることです。

「それをめざしている者は、わたしの弟子である」とイエスさまは必ずおっしゃってくださると思います。「それができない人は、わたしの弟子ではない」とイエスさまがお退けになるようなことはなさらないと思います。しかし「わたしが向かっている方向とは正反対である」ということはおっしゃるのではないかと思います。もし、その方向を「めざして」いないとすれば。

そのことを端的にはっきりおっしゃっているのが26節以下の次の言葉です。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。

これはわたしたちが文字通りに実行すべきことです。「皆に仕える者になるどころか、すべての人を上から見下げて虚勢を張りたがる弱さと罪を持つわたしたちの代わりにイエスさまが死んでくださいましたが、わたしたちはいつまでも傲慢なままです」と言って済ますことはできません。イエスさまから「あなたがたは自分が何を願っているか分かっていない」と言われるでしょう。

(2021年3月21日)

このブログの人気の投稿

感謝の言葉(2024年2月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 436番 十字架の血に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「感謝の言葉」   フィリピの信徒への手紙4章10~20節  関口 康   「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」  今日朗読していただいたのは先々週2月11日にお話しする予定だった聖書箇所です。それは、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』で2月11日の朗読箇所として今日の箇所が定められていたからです。しかし、このたび2月末で私が昭島教会主任担任教師を辞任することになりましたので、そのような機会に今日の箇所についてお話しすることはふさわしいと感じていました。 ところが、全く予想できなかったことですが、1月半ばから私の左足が蜂窩織炎を患い、2月11日の礼拝も私は欠席し、秋場治憲先生に説教を交代していただきましたので、今日の箇所を取り上げる順序を変えました。昭島教会での最後の説教のテキストにすることにしました。 今日の箇所でパウロが取り上げているテーマは新共同訳聖書の小見出しのとおり「贈り物への感謝」です。パウロは「使徒」です。しかし、彼の任務はイエス・キリストの福音を宣べ伝えること、新しい教会を生み出すこと、そしてすでに生まれている教会を職務的な立場から霊的に養い育てることです。現代の教会で「牧師」がしていることと本質的に変わりません。なかでも「使徒」と「牧師」の共通点の大事なひとつは、教会員の献金でその活動と生活が支えられているという点です。 パウロが「使徒」であることとは別に「職業」を持っていたことは比較的よく知られています。根拠は使徒言行録18章1節以下です。パウロがギリシアのアテネからコリントに移り住んだときコリントに住んでいたアキラとプリスキラというキリスト者夫妻の家に住み、彼らと一緒にテント造りの仕事をしたことが記され、そこに「(パウロの)職業はテント造り」だった(同18章3節)と書かれているとおりです。現代の教会で「牧師たちも副業を持つべきだ」と言われるときの根拠にされがちです。 しかし、この点だけが強調して言われますと、それではいったい、パウロにとって、使徒にとって、そして現...

立ち上がれ(2024年2月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「立ち上がれ」 エフェソの信徒への手紙 5章 6~13節 関口 康 「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 今日の箇所の中心的な言葉は「光の子として歩みなさい」(8節)です。直前に「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と記されています。この箇所で描かれているのは、キリスト者の教会生活の始まる“前”と“後”の違いです。「光の子」は教会生活を営むキリスト者であり、その反対の「闇の子」はそうでない人々です。ただしこの描き方には人の心を傷つける要素があります。今の説明が間違っているという意味ではありませんが、慎重な配慮を要する箇所であることは間違いありません。 「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(6節)、また「彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい」(8節)とあります。文脈上は明らかに、教会の外にいる人々が「むなしい言葉」を語っているので、その仲間に加わらないでくださいという意味です。しかし、そのように言えば、強い反発が返ってくるでしょう。「教会は、なんと鼻持ちならない人々か。自分たちだけが正しく、他のすべての人が間違っているかのように言う」。この批判には真摯に耳を傾ける必要があります。 別の見方ができなくはありません。それは、「光の子」と「闇の子」を区別することと、教会に属するか属さないかは無関係である、という見方です。日本では「無教会」の方々は、いま申し上げた立場をお採りになります。しかし、その方法では問題は解決しません。少なくとも今日の箇所で言われている「光の子」は「教会の交わり」から離れては存在しません。 ただし、その場合の「教会」の意味は場所や建物ではありません。神の言葉が語られ、聞かれ、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いの福音を共に信じ、互いに助け合い、さらに聖餐式や愛餐会を通して共に食卓を囲む信徒同士の交わりこそが「教会の交わり」です。 特に最後に挙げた聖餐式と愛餐会は、教会の最も“物理的な”要素です。一例だけ挙げます。今もコロナ禍が完全に収束していると考えている方はおられないと思いますが、とらえ方は多様でしょう。最もひどい状態...

荒野の誘惑(2024年2月11日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 390番 主は教会の基となり 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「荒れ野の誘惑」 マタイによる福音書3章13節~4章11節 秋場治憲 「そのとき『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」 (2024年2月11日)