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受難の予告(2021年3月7日 自宅・礼拝堂礼拝)

石川献之助牧師(最奥)と昭島教会
(画像は約2年前のものです)

讃美歌21 303番 丘の上の主の十字架 奏楽・長井志保乃さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3557・3558号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

マタイによる福音書 16 章 13~28 節

牧師 石川献之助

「それから弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは決して死なない者がいる。」

私たちの教会生活も信仰生活も、聖書の御言葉に従いながら祈りをもっておくられるものだということは当然のことであります。本日与えられた御言葉のごとく、主イエスの弟子たちも、その当時主の御言葉を心におきながらその弟子としての日々をおくっていたことを知らされるのであります。字句の聖書のように私共もまた、主の御言葉を糧として日々をおくることが必要であります。

本日は教会歴でいえば受難節第三主日であります。主イエスは神の子として歩まれました。主が言われたことは、単に不言実行という言い古された教訓でしょうか?誰でも苦労の無い痛みのない道を選びたい、それなのに十字架への道を歩まれた、その意味は何でしょうか?その事を深く考える事こそが、受難節の意味であると思うのです。

受難節が設けられたとは、この問題意識から起こったこと、つまり受難の意味に与り、復活節を迎えるためであるのです。皆さんと御一緒に、このことを考えて今の時を過ごしたいと思います。

今朝与えられました御言葉は、マタイによる福音書 16 章 13 節から 28 節であります。13 節からは、ペトロの信仰について書かれています。

主イエスは、十字架が待つエルサレムに向かわれる前に、フィリポ・カイザリアに行かれ、弟子たちに「人々は人の子のことを何者だと言っているか」(13 節)とお尋ねになりました。弟子たちは、主イエスを洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だなどと言う人がいると答えました。それから弟子たちに同じ質問をされました。もしかしたら、しばらく沈黙があったかもしれません。

するとシモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(16 節)と答えました。主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(17 節)と示されました。

人々はこれまでの人間が考えられる限りにおいて最高の存在として主イエスを捉えていました。しかしペトロは主イエスを「メシア、生ける神の子」だと告白をします。この重大な信仰上の発見を聞いた主イエスは、「あなたはペトロ。この岩の上にわたしの教会を建てる」(18 節)と仰られたのです。

21 節からは、主イエスの身にこれから起こる十字架の出来事は、突然の出来事ではなく、必然的な道であるということを、主は弟子たちにうちあけておられたのであります。まさにこの時が「受難の予告」をされた最初でありました。その事を打ち明けられた弟子たちにとって、この時点で主イエスの最も重要な使命を理解することは、極めて難しい事柄であったことでしょう。

十字架への道は、主イエスお一人で歩まれました。岩の信仰と認められたペトロでさえ、「サタン、引き下がれ」と主イエスより叱責をうけたのです。忠実な弟子たちも、主イエスの言葉の真意を理解し、主の御苦しみに思いをいたすことはできなかったのです。このことを心に留めながら、この受難節その主イエスの秘義に少しでも与りたいと思います。

十字架の贖いの業は、主イエスにしか成就できない業であり、主イエスは自ら進んで十字架に歩み寄られたのであります。主イエスは人々の罪の値のために、生贄としてご自身をささげられました。この最も尊い十字架の贖いの業の根底には、主イエスの愛があるのです。

姦淫の罪のため石打の刑に処されようとしていた女性に、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。」(ヨハネ 8 章 10~11 節)といって人間を祝福し、示して下さった主イエスの愛があればこそ十字架の出来事が起こったのであります。主イエスが与えて下さった許しというものを心に置くとき、私たちは普段の生活においても主イエスが与えて下さる愛に感謝する、主イエスを好きになる、そのような思いに駆られるのであります。

その愛のお方が「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(24~25 節)と語りかけて下さっています。主イエスにならい神様の御心を実現するべく祈りをもって歩みたいと思います。

他方、現代に生きる私たちは、法の支配のもとに社会生活を営んでいます。コロナウイルスの緊急事態宣言下にあって、礼拝さえもその法則に従ってご承知の様な状態を強いられました。教会の兄弟姉妹の交わりも困難な状況が続きました。このような中であらためて教会で礼拝をささげる事の大切さや交わりの豊かさを再認識させられる思いです。

少しずつ教会の活動再開に向けて歩み始めた今、安全な対策を工夫しながら、互いの交わりを取り戻し深めていく必要を強く感じています。これからも適宜、教会生活に励みつつ、皆さんで教会生活を取り戻すべく力をあわせてまいりたいと思います。

(2021年3月7日 日本キリスト教団昭島教会主日礼拝宣教要旨)

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