石川献之助牧師 讃美歌「聞けよ、愛と真理の」奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3553・3554号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます マタイによる福音書 5章17~20節 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」 石川献之助 今朝久方ぶりで、宣教の場に立たせていただく務めを光栄と信じ、又主の御前に畏れを覚える者であります。 今日の聖書の御言葉は、マタイ 5 章 17 節以下の箇所でありますが、この 5 章から始まり7章まで、山上の垂訓と呼ばれる主イエスの大切な教えが語られております。その冒頭 5 章1節からの 8 つの「幸い」の教えは八福の教えと呼ばれ、あまりにも有名で教会学校の子どもたちにも暗誦聖句の主要な御言葉として教えられてきました。 ここで主イエスは、何が本当の「幸い」であるのかを教えられました。主イエスは教師として、神様の御言葉を人々に本質的にわかりやすく語っておられることに、真に驚きを覚える他はありません。 今日はそこに続く 17 節から、「律法について」主イエスが教えられた箇所について学びます。ユダヤ人が律法という時には、4つの違ったことを意味していました。 第一には十戒を意味していました。第二に聖書の最初の 5 書を意味し、ユダヤ人にとっては律法の真髄でありました。第三に律法と預言者、これは聖書全体を意味しています。第四に口伝律法つまり律法学者の律法でありました。主イエスの時代には、この四番目の意味で律法という言葉を用いることが一番多かったそうです。 旧約聖書には、法則や規定は殆ど書かれていません。あるのは広い意味の原則だけでした。モーセが神から与えられた十戒にも何の法則も規定もなく、一つひとつが大原則で、そこから各人が生活の決まりを定めるべきものでありました。しかし、後世のユダヤ人はこれらの大原則では満足できず、律法学者と呼ばれる人たちが現れて、律法の大原則から幾千もの法則と規定をつくり出すことを本職とするようになりました。 ユダヤ的律法主義者たちは、何事も規定しないではすまなくなりました。安息日にどのような行為をしたら罪にあたるかな