スキップしてメイン コンテンツに移動

教えるキリスト(2021年1月31日 各自自宅礼拝)

石川献之助牧師

讃美歌「聞けよ、愛と真理の」奏楽・長井志保乃さん


礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3553・3554号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

マタイによる福音書 5章17~20節

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

石川献之助

今朝久方ぶりで、宣教の場に立たせていただく務めを光栄と信じ、又主の御前に畏れを覚える者であります。

今日の聖書の御言葉は、マタイ 5 章 17 節以下の箇所でありますが、この 5 章から始まり7章まで、山上の垂訓と呼ばれる主イエスの大切な教えが語られております。その冒頭 5 章1節からの 8 つの「幸い」の教えは八福の教えと呼ばれ、あまりにも有名で教会学校の子どもたちにも暗誦聖句の主要な御言葉として教えられてきました。

ここで主イエスは、何が本当の「幸い」であるのかを教えられました。主イエスは教師として、神様の御言葉を人々に本質的にわかりやすく語っておられることに、真に驚きを覚える他はありません。

今日はそこに続く 17 節から、「律法について」主イエスが教えられた箇所について学びます。ユダヤ人が律法という時には、4つの違ったことを意味していました。

第一には十戒を意味していました。第二に聖書の最初の 5 書を意味し、ユダヤ人にとっては律法の真髄でありました。第三に律法と預言者、これは聖書全体を意味しています。第四に口伝律法つまり律法学者の律法でありました。主イエスの時代には、この四番目の意味で律法という言葉を用いることが一番多かったそうです。

旧約聖書には、法則や規定は殆ど書かれていません。あるのは広い意味の原則だけでした。モーセが神から与えられた十戒にも何の法則も規定もなく、一つひとつが大原則で、そこから各人が生活の決まりを定めるべきものでありました。しかし、後世のユダヤ人はこれらの大原則では満足できず、律法学者と呼ばれる人たちが現れて、律法の大原則から幾千もの法則と規定をつくり出すことを本職とするようになりました。

ユダヤ的律法主義者たちは、何事も規定しないではすまなくなりました。安息日にどのような行為をしたら罪にあたるかなど来る日も来る日も論議したそうです。主イエスの時代には、厳格な正統派のユダヤ人にとって、神に仕えるという事は、数千の法則、規定を守ることでありました。

主イエス御自身は、たびたびこのような律法に苦しめられ罪に定められた人々を救い、癒すために、律法を自ら破り糾弾されました。主イエスが律法学者やファリサイ派の人々により姦通の現場で捕えられ石打の刑にあおうとしていた女を、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石をなげなさい」と言って、その女を救われた話を思い起こします。(ヨハネ 8 章)

それでは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(17 節)という御言葉をどのように理解すればよいでしょうか。ここで、主イエスが語られた「律法の完成」とは、律法の本当の意味を示すことであるのです。

律法全体の真髄であり基盤である十戒の基本的な原則は、神に対する畏敬と同胞並びに自己に対する尊敬であります。この畏敬と尊敬がなければ律法というものは有り得ないと教えておられるのです。この畏敬と尊敬を完全なものとするために主イエスは来られたのだと。つまり主イエスはこの神に対する畏れと人間に対する尊敬とが、どのようなものであるかを、具体的な生活の中で示すために来られたのであります。

このように御言葉の学びを進めてくる中で、私の心に深く刻まれた御言葉を思い起こします。ローマ書の 3 章 21 節~24 節を引用します。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわちイエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

現代に生きる私たちも、律法によって裁かれる罪を負う者でありますが、律法を通して神を畏れることを知り、神を畏れつつ愛し、主イエスの十字架の贖いの愛に導かれ、祈りつつ信仰生活を送りたいと思います。新しい年もひと月が過ぎましたが、この年、悔い改めと信仰を新たにして、主の御前にへりくだり励んでまいりましょう。

追って私事ですが、皆様のお祈りに支えられて、私も元気に残る日々を過ごしています。皆様にお会いする日の与えられることを願いつつ、お一人おひとりの上に主の祝福を祈り続けたいと思います。

(2021年1月31日 各自自宅礼拝)

このブログの人気の投稿

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽の中に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「栄光は主にあれ」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (2023年8月27日 聖日礼拝)

天に栄光、地に平和(2023年12月24日 クリスマス礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 261番 もろびとこぞりて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「天に栄光、地に平和」 ルカによる福音書2章8~20節 関口 康 「『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」 クリスマスおめでとうございます! 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書2章8節から20節です。イエス・キリストがお生まれになったとき、野宿をしていたベツレヘムの羊飼いたちに主の天使が現われ、主の栄光がまわりを照らし、神の御心を告げた出来事が記されています。 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(10節)と、天使は言いました。 天使の名前は記されていません。ルカ福音書1章に登場するヨハネの誕生をその母エリサベトに告げ、また主イエスの降誕をその母マリアに告げた天使には「ガブリエル」という名前が明記されていますし、ガブリエル自身が「わたしはガブリエル」と自ら名乗っていますが(1章19節)、ベツレヘムの羊飼いたちに現われた天使の名前は明らかにされていません。同じ天使なのか別の天使なのかは分かりません。 なぜこのようなことに私が興味を持つのかと言えば、牧師だからです。牧師は天使ではありません。しかし、説教を通して神の御心を伝える役目を引き受けます。しかし、牧師はひとりではありません。世界にたくさんいます。日本にはたくさんいるとは言えませんが、1万人以上はいるはずです。神はおひとりですから、ご自分の口ですべての人にご自身の御心をお伝えになるなら、内容に食い違いが起こることはありえませんが、そうなさらずに、天使や使徒や預言者、そして教会の説教者たちを通してご自身の御心をお伝えになろうとなさるので、「あの牧師とこの牧師の言っていることが違う。聖書の解釈が違う。神の御心はどちらだろうか」と迷ったり混乱したりすることが、どうしても起こってしまいます。 もし同じひとりの天使ガブリエルが、エリサベトに

感謝の言葉(2024年2月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 436番 十字架の血に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「感謝の言葉」   フィリピの信徒への手紙4章10~20節  関口 康   「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」  今日朗読していただいたのは先々週2月11日にお話しする予定だった聖書箇所です。それは、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』で2月11日の朗読箇所として今日の箇所が定められていたからです。しかし、このたび2月末で私が昭島教会主任担任教師を辞任することになりましたので、そのような機会に今日の箇所についてお話しすることはふさわしいと感じていました。 ところが、全く予想できなかったことですが、1月半ばから私の左足が蜂窩織炎を患い、2月11日の礼拝も私は欠席し、秋場治憲先生に説教を交代していただきましたので、今日の箇所を取り上げる順序を変えました。昭島教会での最後の説教のテキストにすることにしました。 今日の箇所でパウロが取り上げているテーマは新共同訳聖書の小見出しのとおり「贈り物への感謝」です。パウロは「使徒」です。しかし、彼の任務はイエス・キリストの福音を宣べ伝えること、新しい教会を生み出すこと、そしてすでに生まれている教会を職務的な立場から霊的に養い育てることです。現代の教会で「牧師」がしていることと本質的に変わりません。なかでも「使徒」と「牧師」の共通点の大事なひとつは、教会員の献金でその活動と生活が支えられているという点です。 パウロが「使徒」であることとは別に「職業」を持っていたことは比較的よく知られています。根拠は使徒言行録18章1節以下です。パウロがギリシアのアテネからコリントに移り住んだときコリントに住んでいたアキラとプリスキラというキリスト者夫妻の家に住み、彼らと一緒にテント造りの仕事をしたことが記され、そこに「(パウロの)職業はテント造り」だった(同18章3節)と書かれているとおりです。現代の教会で「牧師たちも副業を持つべきだ」と言われるときの根拠にされがちです。 しかし、この点だけが強調して言われますと、それではいったい、パウロにとって、使徒にとって、そして現代の牧師たちにとって、説教と牧会は「職業ではない