日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌第2編 56番 主はその群れを 週報ダウンロード 宣教ダウンロード 「自由と配慮」 コリントの信徒への手紙一8章1~13節 関口 康 「その兄弟のためにも、キリストが死んでくださったのです。」 今日の朗読箇所には「偶像に供えられた肉」をキリスト者が食べてもよいかという具体的な問題が取り上げられています。 結論を先に言えば、パウロ個人はそれを食べないという選択肢を選びます。それどころかパウロは「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(13節)とまで言います。 これは誤解を招きやすい表現です。パウロが菜食主義者だったという意味にはなりません。パウロは条件文を用いています。「わたしの兄弟」は教会の中での信仰に基づく兄弟姉妹です。その人たちをつまずかせないためにわたしは肉を食べないと言っています。「もしつまずく人がいないなら問題なく肉を食べる」という意味だと考えることが可能です。 ここで「つまずく」(ギリシア語「プロスコンマ」)の意味は、人の足を引っかけて転倒させるために意図的に仕掛けられた石でまさに転倒することです。具体的には、信仰をもっている人がその信仰を失うことを指しています。この私パウロがだれかにとっての石になる可能性があるかもしれないので、そうならないようにする、という決意表明です。 パウロはここで、キリスト者である人々が守るべき普遍的な生活規範や原理原則は何かを言おうとしているのではありません。そうではなく、今ここに、わたしたちの目の前にいるこの人あの人が信仰を失わないようにするために、つまずかせないようにために、わたしたちはどうすればよいかをよく考えて行動することが大事であるということを言おうとしています。 しかし、わたしたちの目の前にいる人は、時と場合とによって変わります。わたしたちは必ずいつも同じ人と一緒にいるわけではありません。そのことはパウロも分かっています。パウロが言っていることを広げて言い換えるとしたら、キリスト者である人は、あるひとりの人の前で見せる顔や態度と、別の人の前で見せる顔や態度とが、違う場合があるし、あってよいということです。 しかしまた、そういう人々を怖がる人や軽蔑する人もいます。そのため、別