日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 460番 やさしき道しるべの(1、4節) 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3631号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「待ちわびていた父」 ルカによる福音書15章11~24節 秋場治憲伝道師 「しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。』」 今日のテキストは有名な箇所です。一般的には「放蕩息子の譬え」として知られています。とても易しいお話で、良きサマリア人の譬えと共に教会学校のテキストにもよく使われます。知らない人はいない、と言っても過言ではないでしょう。 しかしこの譬えに向き合うと、色々と考えさせられる難しい点も出てきます。第一はどこで切るかという問題。24節で切る人もいれば、最後まで一つのまとまりとして捉える人もいます。前半と後半、力点はどちらにあるのか。第二は弟と兄をどう考え、どう評価したらいいのか。第三はこの譬えは「放蕩息子の譬え」と呼ばれているが、主人公は誰なのか。この弟か兄か、それとも走り寄ってきた父親なのか。今回はこの前半、次回は後半、そしてその次は、この二人の後日談に焦点を当ててみたいと思っています。そんなことを念頭に置いて、テキストに入ってみたいと思います。 12節には、ある人に二人の息子がいた。弟の方が「お父さん、私が頂くことになっている財産の分け前をください」と言った。申命記 [1] には財産分与の規定があります。それによると古代イスラエルでは長子相続性を採用していたようです。長男は他の男子の二倍を受け取ることになっています。従ってこの弟は、父親の財産の三分の一を要求しているわけです。弟はその財産を分けてもらって、独立した生活を営もうとしているのです。現代においてもよく見られることです。身に覚えのある方もおられるかもしれない。「自分の可能性を試してみたい」とか「自分探しの旅に出る」とか、わずらわしい親の干渉を逃れて、自由に生きてみたいと夢ふくらませるのは、昔も今も変わらないようです。 13節を見ると、父親はその