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7月, 2022の投稿を表示しています

待ちわびていた父(2022年7月31日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 460番 やさしき道しるべの(1、4節) 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3631号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「待ちわびていた父」 ルカによる福音書15章11~24節 秋場治憲伝道師 「しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。』」 今日のテキストは有名な箇所です。一般的には「放蕩息子の譬え」として知られています。とても易しいお話で、良きサマリア人の譬えと共に教会学校のテキストにもよく使われます。知らない人はいない、と言っても過言ではないでしょう。 しかしこの譬えに向き合うと、色々と考えさせられる難しい点も出てきます。第一はどこで切るかという問題。24節で切る人もいれば、最後まで一つのまとまりとして捉える人もいます。前半と後半、力点はどちらにあるのか。第二は弟と兄をどう考え、どう評価したらいいのか。第三はこの譬えは「放蕩息子の譬え」と呼ばれているが、主人公は誰なのか。この弟か兄か、それとも走り寄ってきた父親なのか。今回はこの前半、次回は後半、そしてその次は、この二人の後日談に焦点を当ててみたいと思っています。そんなことを念頭に置いて、テキストに入ってみたいと思います。  12節には、ある人に二人の息子がいた。弟の方が「お父さん、私が頂くことになっている財産の分け前をください」と言った。申命記 [1] には財産分与の規定があります。それによると古代イスラエルでは長子相続性を採用していたようです。長男は他の男子の二倍を受け取ることになっています。従ってこの弟は、父親の財産の三分の一を要求しているわけです。弟はその財産を分けてもらって、独立した生活を営もうとしているのです。現代においてもよく見られることです。身に覚えのある方もおられるかもしれない。「自分の可能性を試してみたい」とか「自分探しの旅に出る」とか、わずらわしい親の干渉を逃れて、自由に生きてみたいと夢ふくらませるのは、昔も今も変わらないようです。 13節を見ると、父親はその

見えるようになる(2022年7月24日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 402番 いともとうとき(1、3節) 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3630号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「見えるようになる」 マルコによる福音書8章22~26節 関口 康 「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった。」 今日の箇所のイエスさまは「ベトサイダ」(22節)におられます。地図によると、ベトサイダはガリラヤ湖の北端です。 パレスティナとは、北にガリラヤ湖、南に死海、両者をつなぐヨルダン川、そして西に地中海があるあたりを指します。イエスさまがお生まれになったベツレヘムは死海、そしてエルサレムに近い南側にあります。しかし、イエスさまが幼少期に過ごされたナザレや、イエスさまが宣教活動を開始されたカファルナウムは北のガリラヤ湖の近くです。 「都会か田舎か」という大雑把なくくりで言えば、エルサレムを中心とする南側は「都会」で、ガリラヤ湖側は「田舎」です。このようなことからいえば、イエスさまは、田舎育ちの人で、田舎伝道をなさった方だと、そのように説明することもできなくはありません。 そして、今日の箇所の出来事も「ベトサイダ」でのことだと書かれていますので、イエスさまの宣教活動の本拠地に近いあたりでの出来事であることが分かります。書かれていることによると、イエスさまと弟子たちがベトサイダに到着されたとき、人々がひとりの盲人を連れてきて、イエスさまに触れていただきたいと願いました。 「盲人」とは、目が不自由な人のことだと説明する以外にありません。それ以上のことは今日の箇所からは分かりません。生まれつき何も見ることができなかった人なのか、人生の途中までは見えていたけれども、だんだん見えなくなったのか。だんだん視力を失ったという場合、何らかの事故や病気で突然視力を失ったのか、それとも高齢になってきて自然に視力が衰えていったのか。そもそも全く見えないのか、少しは見えるのか。光を認識することができたのか、できなかったのか。そのようなことが分かるデータは提供され

奇跡の意味(2022年7月17日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 輝く日を仰ぐとき 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3629号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「奇跡の意味」 マルコによる福音書8章14~21節 関口 康 「イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」(12節) こんなことは言い訳にならないのですが、昨日が私が今年度非常勤講師をしている高校の期末試験の採点結果を学校に報告する日だった関係で、特に金曜夜から土曜朝まで徹夜で高校2年生250人の答案の採点をして、昨日の早朝から夕方まで学校にいましたので、教会に戻ったらすぐに寝込んでしまい、気が付くと午前4時でした。他のことがいろいろおろそかになっていることを心からお詫びいたします。今週から夏休みです。 いま所属している学校は、中高全体で1200人の生徒がいます。私は1990年4月に24歳で日本キリスト教団の補教師になり、2016年4月に千葉県のキリスト教主義学校の常勤講師になるまでの26年間はもっぱら教会の牧師の仕事をしていましたので、言い方はまずいかもしれませんが、常に少人数の団体(教会)の中にいました。 よく言えば少数精鋭かもしれませんが、悪く言う必要はないかもしれませんが、甘えがあったというか、なんでも「なあなあ」で済む狭い世界に閉じこもっていたとしか言いようがない面がありました。そういう人間が大きな団体(学校)にも所属するようになりました。いまだに慣れないところと、早く慣れなければならないところとあるのを自覚させられています。学校で働くようになって今年で7年目です。 今日の聖書の箇所には、マルコによる福音書の8章1節から始まる一連の出来事を背景としてイエスさまがお語りになった言葉が記されています。 その出来事は、マルコによる福音書では2か所、よく似た内容の記事がありますが、共通するのはイエスさまのもとに集まった群衆にイエスさまご自身が食事をお配りになった点です。1度目は6章30節以下で、5千人の群衆に5つのパンと2匹の魚を

喜びと聖霊(2022年7月10日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌532 ひとたびはしにしみも 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3628号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「喜びと聖霊」 使徒言行録13章41~52節 関口 康 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節) 今日も先週の礼拝に続いて、使徒言行録を開いています。今日の箇所も日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。使徒言行録が続いているのは、わたしたちが今、教会暦で言うところの聖霊降臨節を過ごしている関係で、教団の聖書日課で選ばれる聖書箇所が「聖霊とは何か」「聖霊の働きとは何か」「聖霊降臨後の教会の歩みはどのようなものか」といった問いに答えを与えるものになっているからであると申し上げることができます。 それで、先週の箇所が使徒言行録の11章19節から26節でした。「アンティオキアの教会」という小見出しを新共同訳聖書がつけている箇所です。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(11章26節)という感銘深い言葉が記されている箇所です。それが意味することは、「初代」ないし「原始」キリスト教会の出発と発展の中で特に際立つ仕方で活発な宣教がなされた教会のひとつがアンティオキア教会だった、と言ってよいでしょう。 そして、やはり特に、このアンティオキア教会と結びつく存在として使徒言行録が描いているのが、まだ「サウロ」という名前で呼ばれていたころの、後の使徒パウロです。当時のアンティオキア教会にいた宣教者バルナバがサウロをタルソスから連れ帰ったうえで、バルナバとサウロがアンティオキア教会に丸一年間一緒にいて多くの人を教えました。この使徒パウロにとって最初の宣教拠点になったのがアンティオキア教会であるという点が歴史的に重要な意味を持ちます。 そしてさらに、今日選ばれている箇所には、いまご紹介した出来事よりも少し先に進んだ出来事が描かれています。ひとことでいえば、バルナバ・サウロ両名がアンティオキア教会か

宣教の使命(2022年7月3日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 405番 すべての人に 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3627号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「宣教の使命」 使徒言行録11章19~26節 関口 康 「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった。」 今日の箇所は先週の週報で予告したところから変更しました。先週突然亡くなられた教会員の葬儀を明後日行います。そういうときに読む聖書の言葉は論争的な内容でないほうがよいと考えました。気持ちの問題で変更することをお許しください。 しかし、使徒言行録であることに変わりありません。使徒言行録は、最初期のキリスト教会の宣教ないし伝道の様子を描いている書物です。しかも今日の箇所はとても躍動感があって端的に面白いです。元気が出てきます。 あらすじを申し上げます。「ステファノの事件」(19節)については、使徒言行録6章と7章に詳細が記されています。ステファノはキリスト教会最初の殉教者になった人です。イエスさまと行動を共にした12人の使徒ではありません。 聖霊降臨後のキリスト教会が成長しはじめ、信徒の数が増えてきて、それに伴って教会の中で人間関係のトラブルも増え、交通整理が必要になったので、12人の使徒を助ける人たちが必要だということになりました。 このとき使徒たちが用いた論法はたいへん興味深いものです。6章2節以下に記されています。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい」。その7人の中に選ばれたのがステファノでした。 この論法のどこが興味深いか。おそらく誤解もされやすい言葉であるということをあらかじめ申し上げます。誤解のほうを先に言うほうが分かりやすいと思います。 ありそうな誤解は、「神の言葉」と「食事の世話」を比較したうえで「神の言葉」のほうがどう考えても大切で価値があることで、それは我々のような専門家にしかできないことだけれども、「食事の世話」などという相対的に価値の低いことは、だれでもできること