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奇跡の意味(2022年7月17日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


輝く日を仰ぐとき 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

「奇跡の意味」

マルコによる福音書8章14~21節

関口 康

「イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」(12節)

こんなことは言い訳にならないのですが、昨日が私が今年度非常勤講師をしている高校の期末試験の採点結果を学校に報告する日だった関係で、特に金曜夜から土曜朝まで徹夜で高校2年生250人の答案の採点をして、昨日の早朝から夕方まで学校にいましたので、教会に戻ったらすぐに寝込んでしまい、気が付くと午前4時でした。他のことがいろいろおろそかになっていることを心からお詫びいたします。今週から夏休みです。

いま所属している学校は、中高全体で1200人の生徒がいます。私は1990年4月に24歳で日本キリスト教団の補教師になり、2016年4月に千葉県のキリスト教主義学校の常勤講師になるまでの26年間はもっぱら教会の牧師の仕事をしていましたので、言い方はまずいかもしれませんが、常に少人数の団体(教会)の中にいました。

よく言えば少数精鋭かもしれませんが、悪く言う必要はないかもしれませんが、甘えがあったというか、なんでも「なあなあ」で済む狭い世界に閉じこもっていたとしか言いようがない面がありました。そういう人間が大きな団体(学校)にも所属するようになりました。いまだに慣れないところと、早く慣れなければならないところとあるのを自覚させられています。学校で働くようになって今年で7年目です。

今日の聖書の箇所には、マルコによる福音書の8章1節から始まる一連の出来事を背景としてイエスさまがお語りになった言葉が記されています。

その出来事は、マルコによる福音書では2か所、よく似た内容の記事がありますが、共通するのはイエスさまのもとに集まった群衆にイエスさまご自身が食事をお配りになった点です。1度目は6章30節以下で、5千人の群衆に5つのパンと2匹の魚をお配りになって群衆みんなが満足した、というものです。そして、今日の箇所は8章ですが、4千人の群衆に7つのパンをお配りになってみんなが満足した、というものです。

「そんなことが起こるはずはない、うそに決まっている、全く信じられない」と反応する方がおられるのは当然です。ありえないことが起こることが「奇跡」です。予測可能なことや、物理的にありうることが事実として発生することを「奇跡」と呼びません。その意味ではわたしたちはこの出来事が「どのようにして」(how)起こったのかを考える必要はありません。種も仕掛けもあるマジック(手品)をイエスさまがなさったわけではないからです。

そのことより大事なことがあります。5千人の群衆に対するときと4千人の群衆に対するときとで共通する要素があることに気づかされます。ひとことで言えば、イエスさまはご自身のもとに集まった群衆のひとりひとりを心から愛しておられた、ということです。

5千人のときに次のように記されています。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(6章34節)。

そして4千人に対するイエスさまの言葉はこうです。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」(8章2~3節)。

奇跡を信じられない方がおられるのは大きな問題ではないと思います。私自身にとっても他人事ではありません。しかし、イエスさまのお気持ちがどうだったかについて記されている、いま読んだ2か所の言葉については、ぜひ信じようではありませんか、と強く訴えたいです。

イエスさまは群衆のひとりひとりを愛しておられました。5千人、4千人と、ひとくくりにして、まるで飛行機の上から豆粒のように見える人を見るようにではなく、ひとりひとりを大切な存在として愛しておられました。その全員をなんとかして元気づけたいというイエスさまの願いが、奇跡を引き起こしたのです。そのことが大事です。

最初に私の学校の話をさせていただいたのは、自慢話や愚痴を言いたかったのではありません。いま申し上げている4千人、5千人という規模の人々が集まって聖書を学ぶ場がどのようなものかを想像するときのヒントを、私個人は学校で得ていると申し上げたいのです。

今はコロナで取りやめになっていますが、キリスト教主義学校の基本は毎朝の学校礼拝で全校生徒が一堂に会することから一日を始めることです。学校によって施設規模の違いがあり、全員が集まることができない場合もありますが、形式はともかく「千人礼拝」を毎日行っているのは、日本ではキリスト教主義の学校だけだと思います。教会でその真似はできません。

みなさんにもご経験がきっとおありでしょうから、私の自慢話をしているのではありません。学校礼拝のような場所で説教壇から見るとみんなの顔がよく見えます。居眠りしているのもすぐ分かるし、おしゃべりは論外ですが、機嫌が悪そうだとか、興味を持って話を聞いてくださっていそうだとか、ひとりひとりの気持ちや感情が、意外なほど分かります。

昨日学校で廊下ですれ違った2人の高校3年生に「ぼくらの名前を覚えていますか」とテストされました。昨年度1年間教えた生徒たちです。2人の名前をちゃんと言えたら、すごく驚かれ、喜んでくれました。全員の名前を言える自信はありません。しかし、私がもっと若ければ、全員の名前を覚えたい気持ちです。寄る年波には勝てません。

今日の箇所でイエスさまが弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(15節)と戒められていることの意味は何でしょうか。弟子たちは、自分たちがパンを持って来るのを忘れたことをイエスさまから叱られているのだろうと思い込んでそういう議論をしたようですが、イエスさまがおっしゃったことはそういうこととは全く違います。

ひとつの解説書によると、「ヘロデのパン種」と言われているのはサドカイ派のことではないかということですが、本質的な違いはないと言われています。「どちらにも同じ欠陥がある。つまり、人間が自己を誇り、自己を神の上にさえ押し上げ、自分の邪悪な性情を敬虔さの装いで飾る」点でファリサイ派もサドカイ派も共通していると言われています(シュラッター『新約聖書講解2 マルコによる福音書』新教出版社、1977年、87頁)。

言い方を換えれば、自己愛ばかりが強く、自己実現の欲求ばかりが強く、他人に対する関心が足りず、愛が欠けているということになるでしょう。

「奇跡」がどのように(how)起こったかの仕組みを知る必要はありません。レシピがあれば誰でも同じことを再現できるので「奇跡」でもなんでもなくなります。今日の箇所の最後の「数字合わせ」の意味も分かりません。「12」や「7」は聖書において特別な意味があると言われますが、どうでもいいことです。大切なことは、そこに「愛」があるかどうかです。

(2022年7月17日 聖日礼拝)

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