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8月, 2022の投稿を表示しています

兄を迎えに来た父(2022年8月28日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽のなかに(1、3節) 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3635号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「兄を迎えに来た父」 ルカによる福音書15章25~32節 秋場治憲  前回はこの物語の前半、放蕩に身を持ち崩し、戻って来た息子に駆け寄って、首を抱いて接吻し喜ぶ父の姿がありました。今回はその後半、真面目な兄が父に食ってかかり、父を悲しませる、というお話です。今回は悲しむ父が主人公です。 今日のテキストには「『放蕩息子』のたとえ」という小見出しがついています。これは後半の兄も含めてつけられた小見出しになっています。この放蕩息子とは決して弟のことだけではなく、兄も含めて父の心を理解しない二人の放蕩息子について語られたお話しであるということを念頭において、本題に入りたいと思います。  私は前回父がこの息子を迎えに走った、というお話を致しました。父親は走ることによってその威厳を失います。その威厳を失ってでも、なりふり構わず子供に向かって駆け出した、駆け出さないではいられなかったほど、それほど父の心は沸き立っていた。喜びで満たされていた。ボロ雑巾のような服を着て、重たい足を引きずりながら帰った来た息子めがけてこの父は駆け出したのです。息子の首を抱いて接吻し、「さあ、 急いで 最上の服を持ってきて、この子に着せなさい」という言葉は、その思い [1] を伝えています。 神は高きにいることをやめて、低きにつきたもうたのです。神は仕えさせることをやめて、仕えようとしています [2] 。軍馬にまたがるのではなく、ロバの子に乗って来られたのです。  聖書をよく読むと、神は低くなりたもうたから高き方であり、仕える方になりたもうたから、偉大な方であることが教えられます。しかしキリスト教の歴史を見ていると、392年キリスト教がローマ帝国の国教になって以来、その神観がローマの皇帝像と重なり合う傾向が見られます。ローマ皇帝が偉大であったように、神も偉大な方である。神は高きにいまし、力強い方、というのです。キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城されたこ

友なるイエス(2022年8月21日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 493番 いつくしみ深い(1、3節) 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3634号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「友なるイエス」 ルカによる福音書18章9~14節 関口 康 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」 今日の聖書箇所は私が選びました。いつもは日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』どおりに選んでいますが、『日毎の糧』の今日の箇所が6月12日(日)の花の日・子どもの日礼拝の聖書箇所と同じだと気づきましたので、変更しました。しかし、今日の準備のために読み直した結果、解釈がとても難しい箇所であるということが分かりました。後悔先に立たず、です。 まずこれは「たとえ話」です。「イエスは次のたとえを話された」と書かれているとおりです。分かりやすく大げさな表現が用いられている可能性があることは否定できません。イエスさまが例示されたことを実際に言ったりしたりしていた特定の誰かが本当にいたかどうかは不明です。 しかし、イエスさまがこの話をなさったとき、共感する人がいたに違いありません。ただし、その共感には2種類ありました。なぜ「2種類」なのかといえば、このたとえ話の登場人物の姿を、自分に当てはめて「自分のことが言い当てられた」と感じるか、それとも自分以外のだれかに当てはめて「あの人のことだ」と感じるかの、どちらかの可能性しかないからです。 これが「何のたとえ」なのかは、はっきり記されています。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対する」たとえです。「対する」の意味は「反対する」です。抗議です。「自分は正しい人間だとうぬぼれてはいけない。他人を見下してはいけない」という非難です。 だからこそ、この話にどういう意味で共感するかが重要です。イエスさまのお言葉に共感しているときの自分の心の中に自分自身の姿が浮かぶか、そうでないかで、読み方が変わります。 私は今すでに結論的なことを申し上げています。イエスさまのご趣旨を考えれば、このたとえ話は自分以外のだれかに当てはめてはいけません。「あの人のことだ」と決めつけ

子どもを守る(2022年8月14日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌 主われを愛す(1、4節) 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3633号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「子どもを守る」 ルカによる福音書17章1~4節 関口 康 「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」 お気づきの方がおられるかもしれません。今日の聖書箇所は、先週の週報で予告した箇所から変更しました。今日開いたのはルカによる福音書17章1~4節ですが、先週予告したのはマルコによる福音書9章42~50節でした。 両者は「並行記事」ですが、先週予告したマルコの箇所は読めば読むほど「逃げ道がない」ことが分かりましたので、「逃げ道がある」ルカに切り替えました。「逃げてはいけない」かもしれませんが、とにかくお許しください。 しかしわたしたちは、イエスさまの本心の内容まで、都合よく勝手に決めてよいわけではありません。マルコ(9章42~50節)の内容は、わたしたちの救い主、神の御子、イエス・キリストが、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42節)とおっしゃった、ということです。 さらにイエスさまは、人間の体に2つある「手、足、目」のどちらか一方があなたをつまずかせるなら、つまずきの原因になっているほうの側を「切り捨てなさい」とか「えぐり出しなさい」とおっしゃった、ということです。 もちろんこれは、いま私たち自身が聖書を開いて目で見て確認しているとおり、聖書に確かに記されている言葉です。しかもイエスさまがおっしゃった言葉として紹介されているのですから、権威ある言葉に属しますし、見て見ぬふりなど絶対できません。 しかし、だからといって、この言葉どおりに本当に実行しなくてはならないと、わたしたちが考えなければならないかどうかは別問題です。 実例があるのです。多くは「手」ないし手首です。「足」や「目」の可能性がないわけではありません。「切り捨てる」「えぐり出す」までは行かなくても、「切り刻む」方々がおられます。 今はインターネットがあります。自

平和に過ごす(2022年8月7日 平和聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌531番 こころのおごとに(1、4節) 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3632号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「平和に過ごす」 マルコによる福音書9章33~41節 関口 康 「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」 今日は8月第1日曜日です。日本キリスト教団が1962年に定め、翌1963年から実施している「平和聖日」です。1960年の日米安全保障条約に反対する国内の平和運動との関係で定められた日です。そのことを昨年度も申し上げました。 しかし、私には軍隊経験はありませんし、戦争の現場にいたことも無いし、キリスト教や他の平和運動の団体に属していません。私にできることがあるとすれば、聖書の中で「平和」は何を意味するかを解説することと、戦争が終わることを祈ることです。 無力さを痛感していないわけではありません。しかし、長年私を支えている言葉があります。メールのやりとりでした。20年ほど前です。現在、首都圏の国立大学で政治学を教えておられる教授です。私とほぼ同世代で、日本キリスト教団の教会に属するキリスト者の方です。 なぜ20年ほど前か。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件への報復を理由に始まったアフガニスタン戦争の勃発当初、私は30代でしたが、そのときも何もできない無力さを痛感し、悩んだからです。戦地に乗り込んで平和運動をする人がいることを知り、「あんなふうにできたらいいのに」と考えました。私はそういう人間です。考えるだけで行動が伴いません。 私の思いをその先生に伝えたところ、慰めの言葉をくださいました。「戦地に行って平和のために行動することと、自分が今いる場所で平和を享受し、平和に過ごすことは、本質的に同じ意味と価値を持つので、悩むことはない」(大意)というものでした。 目から鱗が落ちる思いでした。平和運動を日々展開しておられる方々には、まるで言い逃れをしているかのように響く言葉かもしれません。しかし、決して言い逃れではありません。事柄の本質に迫る言葉です。まさに20年、大切に受け止めてきました。 「自分が