日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽のなかに(1、3節) 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます 週報(第3635号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます 「兄を迎えに来た父」 ルカによる福音書15章25~32節 秋場治憲 前回はこの物語の前半、放蕩に身を持ち崩し、戻って来た息子に駆け寄って、首を抱いて接吻し喜ぶ父の姿がありました。今回はその後半、真面目な兄が父に食ってかかり、父を悲しませる、というお話です。今回は悲しむ父が主人公です。 今日のテキストには「『放蕩息子』のたとえ」という小見出しがついています。これは後半の兄も含めてつけられた小見出しになっています。この放蕩息子とは決して弟のことだけではなく、兄も含めて父の心を理解しない二人の放蕩息子について語られたお話しであるということを念頭において、本題に入りたいと思います。 私は前回父がこの息子を迎えに走った、というお話を致しました。父親は走ることによってその威厳を失います。その威厳を失ってでも、なりふり構わず子供に向かって駆け出した、駆け出さないではいられなかったほど、それほど父の心は沸き立っていた。喜びで満たされていた。ボロ雑巾のような服を着て、重たい足を引きずりながら帰った来た息子めがけてこの父は駆け出したのです。息子の首を抱いて接吻し、「さあ、 急いで 最上の服を持ってきて、この子に着せなさい」という言葉は、その思い [1] を伝えています。 神は高きにいることをやめて、低きにつきたもうたのです。神は仕えさせることをやめて、仕えようとしています [2] 。軍馬にまたがるのではなく、ロバの子に乗って来られたのです。 聖書をよく読むと、神は低くなりたもうたから高き方であり、仕える方になりたもうたから、偉大な方であることが教えられます。しかしキリスト教の歴史を見ていると、392年キリスト教がローマ帝国の国教になって以来、その神観がローマの皇帝像と重なり合う傾向が見られます。ローマ皇帝が偉大であったように、神も偉大な方である。神は高きにいまし、力強い方、というのです。キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城されたこ