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3月, 2023の投稿を表示しています

おそれと信仰のはざまで(2023年3月26日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 310番 血しおしたたる 礼拝チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「おそれと信仰のはざまで」             ヨハネ福音書5:1~18               民数記13:25~33               申命記1:1~5 秋場治憲   「そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」 今回の宣教は前回の「べトザタの池での癒し」の続きです。前回と合わせての要旨ですので、量的にも少々多くなっています。また旧約聖書の出エジプトの出来事との関連でお話し致しますので、更に多くなります。旧約聖書の部分は、解説よりも聖書本文の方が臨場感があり、より多くまたより深く主とモーセのやりとりから学べるのではないかと思いましたので、聖書本文をそのまま載せました。これは学びのために事細かく説明していますが、実際の説教はもっと簡潔にお話し致ししたいと思っています。   受難節も残すところ2週間となりました。2月22日の灰の水曜日から数えて聖日を除く40日間が四旬節(受難節)であり、4月の7日金曜日がキリストの受難日となり、9日が復活日(イースター)となります。この受難節を皆様どのようにお過ごしでしょうか。世界を見回してみると色々な過ごし方があるようです。ある人は断食をします。ある人は好きな物、コーヒー、お茶、お酒、肉、スイーツなどを控えます。以前にお話ししたことがあったかもしれませんが、この四旬節(受難節)には肉を絶つのでその前にたらふく肉を食べ、飲んで、踊って楽しもうというのでカーニバル [1] が行われる国もあります。私は以前はこういう過ごし方ということには無頓着でした。しかし、最近はこういう断食をしたり、コーヒーやお酒や、肉を絶ったりする過ごし方というのは、それがどんな形であったとしても、とても大切なことだと思うようになりました。それは目に見えない私たちの信仰というものを、目に見える形で具体的にこの歴史(時間)の中に刻んでいくことであり、またそのことによって自分の信仰を確認していくことにもなります。このような具体性が伴わないと、私たちの信

途方に暮れても失望せず(2023年3月19日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 436番 十字架の血に 礼拝チャイム 週報電子版 宣教要旨PDF 「途方に暮れても失望せず」 コリントの信徒への手紙二4章1~15節 「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」 今日の箇所は使徒パウロのコリントの信徒への手紙二4章1節から15節です。この箇所の中に「わたしたち」という言葉が繰り返し出てきます。だれのことでしょうか。最も狭く考えても、使徒パウロのことだけでないことは明らかです。パウロだけであれば「わたし」と言います。 中身を少し読みますと、「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられている」(1節)、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(5節)、「わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(5節)など、記されているのが分かります。 つまり「わたしたち」の意味は、パウロ自身が含まれるのは当然として、あくまでもイエス・キリストを宣べ伝える「務め」に専門的に就いており、つまり宣教活動を自分の職業にしている人だけを指し、なおかつ「あなたがた」(5節)と呼ばれているコリント教会の人々に「仕える」立場にあった人だけを指す、と考えなくてはならないでしょうか。 そうではなく、もっと広い範囲の人々を含むべきでしょうか。たとえば今日の礼拝に出席しているわたしたちを含めてよいでしょうか。読み方はひとりひとりに任されています。 しかし、ひとつの点ははっきりしています。それは、コリントの信徒への手紙(第一の手紙、第二の手紙)をパウロが書いたのは、コリント教会の中にいた、パウロが「使徒」であることを否定したり相対化したりする人々を牽制する意図があった、ということです。 鶏が先か卵が先かは一概には言えません。コリント教会の中に、パウロと馬が合わない人々がいました。パウロの信仰に照らすと「卑劣な隠れた行い」をしている人々や、「神の言葉を曲げる」人々が教会の中にいました。後者は、聖書解釈の捏造です。その人々をパウロが批判しました。その人々もパウロに反発し、パウロの使徒性を否定しました。 パウロも引かない人でした。「わたしは使徒である」と明

キリストに従う人生(2023年3月12日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 459番 飼い主わが主よ 礼拝チャイム 週報電子版 宣教要旨PDF 「キリストに従う人生」 ルカによる福音書9章18~27節 関口 康 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」 今日の箇所に記されているのは、イエスさまと弟子たちの対話です。イエスさまが弟子たちに「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになったとき弟子たちが答えたのは、イエスさまについてのうわさ話でした。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」(19節)と答えています。 これで分かるのは、イエスさまの時代のユダヤ人の中に「死者の復活」を信じる信仰があったということです。繰り返し解説されてきたように、ユダヤ教のサドカイ派の人々は「死者の復活」を信じませんでした、ファリサイ派の人々は信じていました。旧約聖書の中に「死者の復活」の教えがあり、それを根拠にすることができたからです。この件はあとで再び取り上げます。 イエスさまは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20節)とお尋ねになりました。この問いは弟子たちに態度決定を求めています。ペトロが弟子たちを代表して「神からのメシアです」と答えました。これが弟子たちの態度決定でした。 そのペトロの答えをお聞きになったイエスさまは、弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないようにお命じになりました(21節)。禁止の理由は明白です。イエスさまがメシアであることが多くの人々の前で明らかにされるのは、イエスさま御自身が「多くの苦しみを受け」「殺され」「三日目に復活する」(22節)という出来事を通してでなければなりませんでした。 イエスさまに「王になってもらうために連れて行こう」とした人々がいたことがヨハネによる福音書6章15節に記されています。ユダヤ人のメシア待望論の実際の中身は、イスラエル王国の再建を目指し、特に最大の英雄とみなされたダビデ王の時代の栄光を回復することであり、そのためにダビデの子孫を政治的な王にすることでした。 しかし、イエスさまは全く正反対の道を歩まれました。イエスさまが選ばれたのは、十字架の死に至るまで、罪ある人々を赦し

ノアの箱舟(2023年3月5日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 411番 うたがい迷いの 礼拝チャイム 週報電子版 宣教要旨PDF 「ノアの箱舟」 創世記7章1~24節 関口 康 「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」 今日の朗読箇所はノアの洪水物語です。この物語を歴史的事実であると教えることは教会でも学校でも少なくなったと思います。転換点は19世紀の終わりごろ。発掘された粘土板に古代メソポタミアの勇敢な王ギルガメッシュの活躍を描く「ギルガメッシュ叙事詩」が刻まれ、その11章に聖書の洪水物語とそっくりの物語が出て来ることが分かったときです。それを「バビロニアの洪水物語」と呼ぶとしたら、聖書よりも古いものです。メソポタミアは洪水多発地帯で、洪水物語は他にもあります。 いま申し上げたことの意味は、聖書の洪水物語には下敷きとして用いられたモデルがあったということです。ただし、完全なコピーではなく、聖書独自の視点から書き直されました。このことは長年、日本のキリスト教主義学校の聖書科の教科書として用いられてきた本に記されています。私も学校ではその線に従っています。心配は無用です。聖書と信仰の価値は少しも失われません。 現代人は「創作物語」と聴くだけで「うそなのか」と反応することがありえます。しかし聖書は悪意をもって人をだます目的で書かれていませんので「うそ」ではありません。そもそも、聖書が書かれた古代社会に、現代人が思い描くような科学的立証を求める「歴史」は存在しません。 聖書の洪水物語は創世記の中で特別な位置を占めています。6章4節に「大昔」と記されています。その「大昔」と呼ばれている古い時代と、創世記の著者が生きている新しい時代の境目になったのが「ノアの洪水」です。6章5節に「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になった」と記されます。創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と記されていることの正反対です。人間は、最初は良かったのに悪くなりました。人間が悪くなったのは、人間を創造した神の責任ではなく、人間の責任です。 そして、神は「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6章6節)と記されます。「神の後悔」という思想