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ノアの箱舟(2023年3月5日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 411番 うたがい迷いの

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「ノアの箱舟」

創世記7章1~24節

関口 康

「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」

今日の朗読箇所はノアの洪水物語です。この物語を歴史的事実であると教えることは教会でも学校でも少なくなったと思います。転換点は19世紀の終わりごろ。発掘された粘土板に古代メソポタミアの勇敢な王ギルガメッシュの活躍を描く「ギルガメッシュ叙事詩」が刻まれ、その11章に聖書の洪水物語とそっくりの物語が出て来ることが分かったときです。それを「バビロニアの洪水物語」と呼ぶとしたら、聖書よりも古いものです。メソポタミアは洪水多発地帯で、洪水物語は他にもあります。

いま申し上げたことの意味は、聖書の洪水物語には下敷きとして用いられたモデルがあったということです。ただし、完全なコピーではなく、聖書独自の視点から書き直されました。このことは長年、日本のキリスト教主義学校の聖書科の教科書として用いられてきた本に記されています。私も学校ではその線に従っています。心配は無用です。聖書と信仰の価値は少しも失われません。

現代人は「創作物語」と聴くだけで「うそなのか」と反応することがありえます。しかし聖書は悪意をもって人をだます目的で書かれていませんので「うそ」ではありません。そもそも、聖書が書かれた古代社会に、現代人が思い描くような科学的立証を求める「歴史」は存在しません。

聖書の洪水物語は創世記の中で特別な位置を占めています。6章4節に「大昔」と記されています。その「大昔」と呼ばれている古い時代と、創世記の著者が生きている新しい時代の境目になったのが「ノアの洪水」です。6章5節に「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になった」と記されます。創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と記されていることの正反対です。人間は、最初は良かったのに悪くなりました。人間が悪くなったのは、人間を創造した神の責任ではなく、人間の責任です。

そして、神は「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6章6節)と記されます。「神の後悔」という思想が初めて登場します。「神の後悔」と、人間が自分の罪を「悔い改める」というときに用いられる言葉は同じです。「神が後悔する」と言われると奇妙に聞こえます。しかし、旧約聖書では、神について「悔い改め」が記されている箇所が29 回あるのに対して、人間の悔い改めは 6 回しか語られていません。神の悔い改めのほうがはるかに多いです。もっとも29回のうち8回分は「神は~について悔い改めない」と記されている箇所なので差し引く必要があります。それでもまだ21回も神の悔い改めを記した箇所があることが記憶されるべきです。

「後悔」であれ「悔い改め」であれ、聖書の場合の最も基本的な意味は、くよくよするのをやめることです。優柔不断をやめること。良いことは良い、悪いことは悪いと決断し、その判断にふさわしい行動をとることです。正反対の意味で考えている場合は、まだ悔い改めに至っていない証拠になります。

「神が後悔する」と言われると、まるで神が「失敗は成功の母」と言いながら試行錯誤を続ける発明家であるかのようです。しかし、「神の後悔」は違います。聖書の神は、人間に都合よく動いてくれる「機械仕掛けの神」(デウス・エクス・マキーナ)ではありません。だからといって優柔不断に態度を変えたり、支離滅裂な行動をとったりすることはありえず、すべてにおいて首尾一貫しておられます。しかし、人間が絶えず変化するので、神が人間に対応してくださるのです。それが「神の後悔」です。

6章7節に「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう」とあります。「ぬぐい去る」は、使用済みの食器を洗わずに放っておくと臭くなるので洗うというのと同じです。腐敗したものを洗い流すことです。「魚」が含まれていないことに注目する解説を読みました。魚は神の後悔の対象外だったというのは、罪があるのは人間だけで、動物にも植物にも罪はないことの証拠だというのです。

ノアが選ばれた理由は「ノアは神に従う無垢な人だった」(9節)ことだけです。完璧な聖人であるという意味ではありません。同じ時代の人たちとは一線を画す仕方で「神と共に歩む」という生き方を貫いた人であるという意味です。洪水の最中もノアは、箱舟の中でじっとしていただけです。

箱舟の素材に指定された「ゴフェルの木」(6章14節)の意味は分かりません。聖書の中でここだけに出て来る名前です。「編んだ木の幹」と訳すことができるという解説があります。

バビロニアの洪水物語の箱舟は正方形でした。しかし、聖書の箱舟は長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマ。アンマは前腕の長さで約45センチ。長さ135メートル、幅22.5メートル、高さ13.5メートルの巨大な箱。舵もなく、かい(オール)もなく、帆(マスト)もありません。自力で移動することができず、ただ水の上に浮かぶことができるだけの、いわば「巨大な棺桶」です。

箱舟の中でのノアと家族の食べ物は野菜です。箱舟の中の動物たちは、彼らの食糧ではありません。神の関心は、新しい時代に子どもが生まれ、人類の歴史が続くことです。7章2節を見ると「清い動物」だけでなく「清くない動物」も箱舟に入れと言われています。新しい時代に残るのは「清いもの」だけであるという思想ではないことの証拠です。

8章6節以下の「鳥を放す」エピソードは、バビロニアの洪水物語との最も顕著な類似点です。昔の船乗りは鳥を飛ばして岸が近いかどうかを調べるのが一般的でした。「鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった」(8章12節)は美しい表現です。箱舟の中のどの存在も、ノアの所有物ではありません。神の恵みのもとで自由に生きるべき存在です。

鳩がノアのもとから去ってから、さらに1か月待ってやっと地上の水が乾きました。そのときノアは601歳でした。ノアたちが水の上に浮いていた期間は1年と10日です。その間、箱舟の中でノアが聞いていたのは水の跳ねる音だけでした。神の言葉すら語られていません。

箱舟を出て新しい時代に生きることは、創世記1章の天地創造の状態からのやり直しを意味します。天地創造の物語が安息日で終わるように、洪水物語は祭壇建設で終わります(8章20節以下)。祭壇を意味するヘブライ語の意味は「屠殺場」です。供え物は丸ごと焼かれます。人間はそれを食べません。あくまでも神への贈り物です。焼けた肉の「宥(なだ)めの香り」は神の怒りを和らげます。いけにえによってノアは感謝の気持ちを表し、主は感謝のしるしとしてこのいけにえを喜びます。

その香りをかいだ神は「御心に言われた」(8章21節)とは、ご自身の胸に誓われたということです。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いころから悪いのだ。わたしはこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」と神はご決意されました。

人の悪を神が放置するという意味ではありません。しかし、人類と自然を消去するという方法で罪に対する罰をくだすことは二度としない、ということです。この教えの意味は、「自然」に罪はなく、人間の意志の中にだけ罪がある、ということです。悪いのは、環境でもなければ、自分自身の肉体でもなく、あなたの心の中にあるものが悪い。変わらなければならないのは、あなたの心です。

ノアの洪水物語の意味は、神がどこまでも私たち人間の心を罪から救い出そうとする決意を示してくださったことにあります。

受難節の意味は、イエス・キリストを十字架につけたこの私の罪を悔い改めることです。

(2023年3月5日 聖日礼拝)

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