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感謝の言葉(2024年2月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 436番 十字架の血に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「感謝の言葉」   フィリピの信徒への手紙4章10~20節  関口 康   「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」  今日朗読していただいたのは先々週2月11日にお話しする予定だった聖書箇所です。それは、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』で2月11日の朗読箇所として今日の箇所が定められていたからです。しかし、このたび2月末で私が昭島教会主任担任教師を辞任することになりましたので、そのような機会に今日の箇所についてお話しすることはふさわしいと感じていました。 ところが、全く予想できなかったことですが、1月半ばから私の左足が蜂窩織炎を患い、2月11日の礼拝も私は欠席し、秋場治憲先生に説教を交代していただきましたので、今日の箇所を取り上げる順序を変えました。昭島教会での最後の説教のテキストにすることにしました。 今日の箇所でパウロが取り上げているテーマは新共同訳聖書の小見出しのとおり「贈り物への感謝」です。パウロは「使徒」です。しかし、彼の任務はイエス・キリストの福音を宣べ伝えること、新しい教会を生み出すこと、そしてすでに生まれている教会を職務的な立場から霊的に養い育てることです。現代の教会で「牧師」がしていることと本質的に変わりません。なかでも「使徒」と「牧師」の共通点の大事なひとつは、教会員の献金でその活動と生活が支えられているという点です。 パウロが「使徒」であることとは別に「職業」を持っていたことは比較的よく知られています。根拠は使徒言行録18章1節以下です。パウロがギリシアのアテネからコリントに移り住んだときコリントに住んでいたアキラとプリスキラというキリスト者夫妻の家に住み、彼らと一緒にテント造りの仕事をしたことが記され、そこに「(パウロの)職業はテント造り」だった(同18章3節)と書かれているとおりです。現代の教会で「牧師たちも副業を持つべきだ」と言われるときの根拠にされがちです。 しかし、この点だけが強調して言われますと、それではいったい、パウロにとって、使徒にとって、そして現...
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立ち上がれ(2024年2月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「立ち上がれ」 エフェソの信徒への手紙 5章 6~13節 関口 康 「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 今日の箇所の中心的な言葉は「光の子として歩みなさい」(8節)です。直前に「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と記されています。この箇所で描かれているのは、キリスト者の教会生活の始まる“前”と“後”の違いです。「光の子」は教会生活を営むキリスト者であり、その反対の「闇の子」はそうでない人々です。ただしこの描き方には人の心を傷つける要素があります。今の説明が間違っているという意味ではありませんが、慎重な配慮を要する箇所であることは間違いありません。 「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(6節)、また「彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい」(8節)とあります。文脈上は明らかに、教会の外にいる人々が「むなしい言葉」を語っているので、その仲間に加わらないでくださいという意味です。しかし、そのように言えば、強い反発が返ってくるでしょう。「教会は、なんと鼻持ちならない人々か。自分たちだけが正しく、他のすべての人が間違っているかのように言う」。この批判には真摯に耳を傾ける必要があります。 別の見方ができなくはありません。それは、「光の子」と「闇の子」を区別することと、教会に属するか属さないかは無関係である、という見方です。日本では「無教会」の方々は、いま申し上げた立場をお採りになります。しかし、その方法では問題は解決しません。少なくとも今日の箇所で言われている「光の子」は「教会の交わり」から離れては存在しません。 ただし、その場合の「教会」の意味は場所や建物ではありません。神の言葉が語られ、聞かれ、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いの福音を共に信じ、互いに助け合い、さらに聖餐式や愛餐会を通して共に食卓を囲む信徒同士の交わりこそが「教会の交わり」です。 特に最後に挙げた聖餐式と愛餐会は、教会の最も“物理的な”要素です。一例だけ挙げます。今もコロナ禍が完全に収束していると考えている方はおられないと思いますが、とらえ方は多様でしょう。最もひどい状態...

荒野の誘惑(2024年2月11日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 390番 主は教会の基となり 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「荒れ野の誘惑」 マタイによる福音書3章13節~4章11節 秋場治憲 「そのとき『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」 (2024年2月11日)

試練の中に育つ神の言(2024年2月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 412番 昔 主イエスの 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「試練の中に育つ神の言」 使徒言行録12章1~17節、24節 秋場治憲 「神の言葉はますます栄え、広がっていった。」 (2024年2月4日)

命の言(2024年1月28日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 289番 みどりもふかき 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「命の言」 ヨハネの手紙一1章1~4節 関口 康 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」 今日開きました聖書の箇所は、新約聖書のヨハネの手紙一の冒頭部分です。1章1節から4節までを司会者に朗読していただきました。 「ヨハネの手紙」と題される文書は三つあります。そのうち「二」(第二の手紙)と「三」(第三の手紙)には、「長老のわたしから」と記されていて、「長老」を名乗る人物が書いた文書であることが明らかにされていますが、「一」(第一の手紙)の中には著者についての情報がありません。 ヨハネス・シュナイダーという聖書学者によると、「ヨハネ福音書とヨハネの第一の手紙の著者は同一人である」とされます(『NTD新約聖書註解 第10巻公同書簡』日本語版1975年、307頁)。しかしシュナイダーは、ヨハネ福音書とヨハネの手紙一の著者はイエス・キリストの12人の弟子の中の使徒ヨハネが書いたとするキリスト教会の伝統的な理解に立つわけではありません。使徒ヨハネではない別の誰かが書いたものであるが、今日まさにわたしたちが開いている冒頭部分の記述内容からして、主イエスの地上の生涯と活動を目の当たりにした人物が書いたものであるとしています。私も基本的にその線で同意します。 ヨハネの手紙一の冒頭部分に書かれているのは、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」(1節)という言葉です。この「命の言(ことば)」は「聖書」という言葉で置き換えることはできません。そうではなく、ヨハネによる福音書の冒頭部分に記されている言葉が思い起こされるべきです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1章1~5節)と記されているあの言葉です。 そうです、「命の言(こ...

再創造の約束(2024年1月21日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 351番 聖なる聖なる 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「再創造の約束」 創世記3章1~15節、ローマの信徒への手紙4章4~8節 秋場治憲伝道師 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。」 (2024年1月21日)

恵みの選び(2024年1月14日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 7番 ほめたたえよ 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「恵みの選び」 ガラテヤの信徒への手紙 1章11~24節 関口 康 「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされ(ました)。」 今日の箇所は、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙1章11節から24節までです。この手紙の最初の 2 章(1~2章)の主旨はパウロの自己弁明です。わたしパウロは「使徒」であるということ。他のすべての使徒と完全に対等の存在であるということ。そのことを強く主張しています。 反発される可能性があります。パウロも人の子だった。人には傲慢をいさめ、謙遜を勧める。しかし、結局は自分と他の使徒を比較して地位や順位を競っているだけではないか。そのようなそしりを受けることをパウロ自身が知らずにいたとは思えません。しかし、パウロはだれが何と言おうと自分が「使徒」であることを弁明せざるをえませんでした。なぜなら、彼の敵対者たちが彼から「使徒」の呼び名と権利を剥奪しようとしたからです。 聖書で「使徒」と呼ばれるのはイエス・キリストの12人の弟子です。ただし、使徒のひとりのイスカリオテのユダが自害した後、くじ引きでマティアが選ばれ、ユダの穴埋めをしましたので、マティアも「使徒」です。しかし、パウロは自ら「使徒」を名乗ります。それはイエス・キリストの啓示によると主張します。そして自分は「使徒」である以上、他の使徒と同等の権威を持っているので、他の使徒たちに従属する立場になく、反論する権利があることを主張しました。 牧師は使徒ではありません。しかし、パウロの言い分は、牧師たちにはよく分かるものです。使徒と牧師の働きは本質的に同じです。旧約聖書の預言者も同様です。牧師は預言者でもありません。しかし、働きは本質的に同じです。神の言葉を預かり、民に伝えることです。 だからこそ、牧師にはパウロの言い分がよく分かります。だいたいいつも「あの人は神の言葉を語るにふさわしくない」と思われているものだからです。パウロは牧師たちの代弁者です。 「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人に...