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恵みの選び(2024年1月14日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

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「恵みの選び」

ガラテヤの信徒への手紙 1章11~24節

関口 康

「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされ(ました)。」

今日の箇所は、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙1章11節から24節までです。この手紙の最初の 2 章(1~2章)の主旨はパウロの自己弁明です。わたしパウロは「使徒」であるということ。他のすべての使徒と完全に対等の存在であるということ。そのことを強く主張しています。

反発される可能性があります。パウロも人の子だった。人には傲慢をいさめ、謙遜を勧める。しかし、結局は自分と他の使徒を比較して地位や順位を競っているだけではないか。そのようなそしりを受けることをパウロ自身が知らずにいたとは思えません。しかし、パウロはだれが何と言おうと自分が「使徒」であることを弁明せざるをえませんでした。なぜなら、彼の敵対者たちが彼から「使徒」の呼び名と権利を剥奪しようとしたからです。

聖書で「使徒」と呼ばれるのはイエス・キリストの12人の弟子です。ただし、使徒のひとりのイスカリオテのユダが自害した後、くじ引きでマティアが選ばれ、ユダの穴埋めをしましたので、マティアも「使徒」です。しかし、パウロは自ら「使徒」を名乗ります。それはイエス・キリストの啓示によると主張します。そして自分は「使徒」である以上、他の使徒と同等の権威を持っているので、他の使徒たちに従属する立場になく、反論する権利があることを主張しました。

牧師は使徒ではありません。しかし、パウロの言い分は、牧師たちにはよく分かるものです。使徒と牧師の働きは本質的に同じです。旧約聖書の預言者も同様です。牧師は預言者でもありません。しかし、働きは本質的に同じです。神の言葉を預かり、民に伝えることです。

だからこそ、牧師にはパウロの言い分がよく分かります。だいたいいつも「あの人は神の言葉を語るにふさわしくない」と思われているものだからです。パウロは牧師たちの代弁者です。

「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」(11~12節)とパウロは記します。

これは、「福音」(喜びの知らせ)は人間が考え出したものではなく、人間から教えられたものでもなく、イエス・キリストの啓示によるという意味です。

「イエス・キリストの啓示」とは、イエス・キリストが十字架にはりつけにされたゴルゴタの丘とその先から始まるキリストによる新しい歴史を指しています。新約聖書のどこにも「啓示」という言葉で「聖書」を意味させる箇所はありません。啓示は人が常に携帯できる物ではありません。「啓示」の意味は、隠されていたものを明らかにすることです。明らかにするのは神ご自身です。聖書の知識の伝達ではなく、神がご自身の御心(エウドキア=神の喜び)を人の心に開示することです。それを人は「信仰」という方法で受信し、理解します。

「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教としてどのようにふるまっていたかを聞いています」(13~14節)とあるのは、だれか特定の人がガラテヤ教会の人々にパウロの過去を言いふらしたという意味よりも、次の二つの意味の可能性を考えるほうがベターです。

ひとつは、パウロがユダヤ教徒として熱心かつ忠実であったことを、多くの人が知っていた。つまり、彼は有名人だったということです。

もうひとつの意味は、ガラテヤ教会はパウロの第1回伝道旅行の成果として生み出された教会であり(これは「南ガラテヤ説」に基づく理解です)、ガラテヤ教会の人々にパウロ自身が自分の過去を直接話したことがある、という意味です。

彼の過去とは、「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていた」過去です。「神の教会」とはキリスト教会のことです。「神がお立てになったキリスト教会」です。しかし、その後パウロはユダヤ教から完全に距離を置くことになりました。「キリスト教」という言葉は、当時からありました。キリスト教とユダヤ教には完全な区別があり、2つの異なる領域です。

パウロは、神のみわざとしてのキリスト教会を破壊していた自分の罪を告白します。彼が迫害したのはエルサレムの教会だけでなく、外国の都市のキリスト者を迫害しました。パウロは自分が「神の教会」を迫害したことを思い出すたびに自分自身に失望しました。その罪から救われ、今の自分があるのは神の恵みによることを強く自覚し、神への感謝を忘れなかった人です。

ユダヤ人の生活は、少なくとも外面的には、完全に律法のおきてに従っていましたので、道徳的には非の打ち所がありませんでした。しかし、それらすべてが、そのまま彼の罪だと分かりました。絶対的な宗教的確信が「神の教会」を滅ぼそうとする力の源泉になっていたのですから、方向転換のためには神の雷(かみなり)が必要でした。彼は一方の絶対的な信仰から解放され、過去のものとは全く異なる、全く新しい意味でのイエス・キリストにおいて啓示された福音への絶対的な信仰へと回心しました。それは最も難しい方向転換です。神のわざそのものです。

パウロは自分の「回心」の事実を、エレミヤ書1章5節の言葉を借りて述べています。「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされ……」(15~16節)。

預言者エレミヤに示された主の御言葉は次のとおりです。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」(1章5節)。

「母の胎から生まれる前に」の最も中心的な意味は、預言者としての資格のあるなしは本人の努力によらないということです。神の言葉を預かり、民に伝える働きにふさわしいかどうかは、人間が決めるのではなく、神ご自身が決めることです。神が恵みによって選んだ人だけが、神の言葉を民に伝える働きに就くことができます。その真理は永遠に変わりません。

パウロは、回心から 2 年後、エルサレムの使徒ペトロを訪問します。これはパウロが真の使徒になるために通るべき巡礼だったことを意味しません。パウロの意図はペトロへの自己紹介です。ペトロはキリスト教会の最高権力者でした。パウロがペトロのもとに行ったのは人々が彼を信頼しないからです。しかし、パウロはペトロの弟子になりたかったのではありません。パウロは誰の弟子でもなく、イエス・キリストの使徒です。「キリスト・イエスの僕(しもべ)(ドゥーロス=奴隷)」であるとすら名乗っています(ローマ1章1節)。僕は主人以外の誰にも従いません。

パウロは、他のだれかが築いた土台の上に立って、伝道と牧会のわざに就くことをよしとしませんでした。パウロは孤独を恐れませんでした。孤独を恐れる人に、異邦人伝道の使命を果たすことは不可能です。孤独を恐れる人に、神の言葉を民に伝える職務は果たせません。「神が恵みによってこのわたしを伝道者として選んでくださった」という確信のみが伝道者を支えます。

(2024年1月14日 聖日礼拝)

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