スキップしてメイン コンテンツに移動

死から命へ(2024年1月7日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 211番 あさかぜしずかに

礼拝開始チャイム

週報電子版ダウンロード

宣教要旨ダウンロード


「死から命へ」

エフェソの信徒への手紙2章1~10節

関口 康

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるものではなく、神の賜物です。」

今日は2024年最初の聖日です。今年1年も、わたしたちが各自の持ち場にあって、家庭や職場や地域社会の中で、主の前で謙遜に歩むことができますようお祈りいたします。

今日の聖書箇所は、エフェソの信徒への手紙2章1節から10節までです。この箇所に記されているのは、イエス・キリストを信じる信仰を神の恵みとして与えられ、かつイエス・キリストの体なる教会に連なって生きるわたしたちへの励ましの言葉です。

ただし、これはたしかに励ましですが、単なる現状肯定や無批判な受容ではなく、わたしたちが謙遜であり続けることを求めるニュアンスが含まれています。それは、謙遜でない人を戒め、教会生活の原点としての洗礼の教えに立ち返ることを求めるニュアンスです。

今日の箇所に出てくる印象的な言葉は「あなたがた(わたしたち)は死んでいた」です。1節に「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」とあります。4節以下にも「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし(中略)キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」とあります。

両者の共通点は「死ぬ」という言葉が出てくることですが、その意味はどちらも、キリスト者であるわたしたちは「これから」死ぬのではなく「以前」または「かつて」死んでいたということです。しかしその「死んでいた」わたしたちが「生きる者」となるというのですから通常の生活感覚の逆です。普通は、生きている人が亡くなる。しかし、その反対のことが言われています。つまり、ここで言われているのは生物学的な意味の「死」ではありません。宗教的な意味です。

生物学的には「生きている」状態であるが、宗教的には「死んでいる」状態とは何でしょうか。その違いは、神との関係です。神との関係が途絶えていることが宗教的な意味で「死んでいる」状態であり、反対に、神との関係が回復し、遮断していたのに再接続できるようになったことが「生きている」または「生き返った」状態です。イエス・キリストの死と復活によって、キリストと結ばれたわたしたちの存在まで死んでいた状態から生きている状態へと切り換えられました。

それでは、以前は「死んでいた」わたしたちが「生きている」者になった転機はいつかというと、それは「洗礼」であるというのがパウロの教えです。パウロは「キリストと共に死ぬこと」と「洗礼」の関係を明確に語っています。

代表的な箇所はローマの信徒への手紙6章3節以下です。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」。

コリントの信徒への手紙二5章14節以下にも同じ趣旨の言葉があります。「わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。

いま2か所、パウロの言葉を読みました。両者に共通するのは、イエス・キリストが死んでよみがえったのは、罪によって死んでいたわたしたちが生きる者になるためであるという信仰の教えです。そして興味深いことは、ローマの信徒への手紙でも、コリントの信徒への手紙二でも、パウロがこの教えを前面に打ち出す文脈の意図は、キリスト者である者たちこそ「謙遜」であるべきことを教えることにあるという点です。

それは、わたしたちはもはや自分のために生きているのではなくキリストのために生きているのだから、自分を誇り、不遜な態度をとるのはやめようではないかと呼びかける文脈です。第二コリント書に至っては、パウロとコリント教会が激突した状態で、教会の内部にパウロを激しく批判する人々がいることを知りつつ、イエス・キリストの弟子としてふさわしい謙遜と冷静さを取り戻すことを呼びかけるために書かれた手紙です。そのためにパウロは、すべてのキリスト者が経験している「洗礼」の事実に立ち返ることを訴えています。

それでは、なぜわたしたちが「以前」死んでいたのかといえば、罪の奴隷だったからです。命をもたらす神の支配下ではなく、死をもたらす罪の支配下にいたからです。今日の箇所の3節に記されている「わたしたちは皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」が、罪の奴隷状態にある人間の姿を表しています。

誤解なきように気をつけたいのは、3節の言葉には、今はキリスト者になっている人たちが以前は「こういう者たち」や「ほかの人々」の中にいたということを責める意図があるわけではないことです。そのように理解すると、教会の交わりに参加していない人々を軽蔑したり攻撃したりする意味になってしまい、ファリサイ主義の罠にかかっています。

重要なことは、「『あんな人たち』の中にいた過去」から「『こんな人たち』の中にいる現在」へと陣地換えしたかどうかではなく、罪の奴隷状態であることから解放されているかどうかです。洗礼を受けてイエス・キリストの体なる教会の一員になったとき、それ以前の生き方とは180度方向転換すること、すなわち「回心」(conversion)が起こったかどうかです。

そして、その「回心」との関係で特に重要なことは、今日の箇所の8節以下の言葉です。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」。

ここに再び、キリスト者である者こそ「謙遜」であるべきことを強く訴える教えが出てきます。信仰ですら、あるいは信仰こそ、熱心かどうかの競争を、教会の中ですら、あるいは教会の中でこそ、全力で始める人々がいつの時代にも登場するので、それを強く戒める言葉が、ここに出てきます。信仰は自分の努力や行いではなく神の賜物である。したがって、わたしたちが「信仰によって義とされる」ことの中に、いかなる意味でも本人の努力や業績に対する評価の要素はない、ということを意味します。神から「頂戴した」(プレゼントされた)信仰を、まるで自分の努力の成果や勲章のようにとらえることは許されていません。

そのような事情であることを、わたしたちひとりひとりが理解したうえで、謙遜に生きることができるようになるための訓練場がイエス・キリストの体なる教会です。ただし、教会的な意味での「謙遜」は、一般的な礼儀作法の問題ではありません。自分の名誉のために生きているか、それとも、神の栄光を現すために生きているかの問題です。その評価は神がしてくださいます。

(2024年1月7日 聖日礼拝)

このブログの人気の投稿

感謝の言葉(2024年2月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 436番 十字架の血に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「感謝の言葉」   フィリピの信徒への手紙4章10~20節  関口 康   「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」  今日朗読していただいたのは先々週2月11日にお話しする予定だった聖書箇所です。それは、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』で2月11日の朗読箇所として今日の箇所が定められていたからです。しかし、このたび2月末で私が昭島教会主任担任教師を辞任することになりましたので、そのような機会に今日の箇所についてお話しすることはふさわしいと感じていました。 ところが、全く予想できなかったことですが、1月半ばから私の左足が蜂窩織炎を患い、2月11日の礼拝も私は欠席し、秋場治憲先生に説教を交代していただきましたので、今日の箇所を取り上げる順序を変えました。昭島教会での最後の説教のテキストにすることにしました。 今日の箇所でパウロが取り上げているテーマは新共同訳聖書の小見出しのとおり「贈り物への感謝」です。パウロは「使徒」です。しかし、彼の任務はイエス・キリストの福音を宣べ伝えること、新しい教会を生み出すこと、そしてすでに生まれている教会を職務的な立場から霊的に養い育てることです。現代の教会で「牧師」がしていることと本質的に変わりません。なかでも「使徒」と「牧師」の共通点の大事なひとつは、教会員の献金でその活動と生活が支えられているという点です。 パウロが「使徒」であることとは別に「職業」を持っていたことは比較的よく知られています。根拠は使徒言行録18章1節以下です。パウロがギリシアのアテネからコリントに移り住んだときコリントに住んでいたアキラとプリスキラというキリスト者夫妻の家に住み、彼らと一緒にテント造りの仕事をしたことが記され、そこに「(パウロの)職業はテント造り」だった(同18章3節)と書かれているとおりです。現代の教会で「牧師たちも副業を持つべきだ」と言われるときの根拠にされがちです。 しかし、この点だけが強調して言われますと、それではいったい、パウロにとって、使徒にとって、そして現...

立ち上がれ(2024年2月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「立ち上がれ」 エフェソの信徒への手紙 5章 6~13節 関口 康 「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 今日の箇所の中心的な言葉は「光の子として歩みなさい」(8節)です。直前に「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と記されています。この箇所で描かれているのは、キリスト者の教会生活の始まる“前”と“後”の違いです。「光の子」は教会生活を営むキリスト者であり、その反対の「闇の子」はそうでない人々です。ただしこの描き方には人の心を傷つける要素があります。今の説明が間違っているという意味ではありませんが、慎重な配慮を要する箇所であることは間違いありません。 「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(6節)、また「彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい」(8節)とあります。文脈上は明らかに、教会の外にいる人々が「むなしい言葉」を語っているので、その仲間に加わらないでくださいという意味です。しかし、そのように言えば、強い反発が返ってくるでしょう。「教会は、なんと鼻持ちならない人々か。自分たちだけが正しく、他のすべての人が間違っているかのように言う」。この批判には真摯に耳を傾ける必要があります。 別の見方ができなくはありません。それは、「光の子」と「闇の子」を区別することと、教会に属するか属さないかは無関係である、という見方です。日本では「無教会」の方々は、いま申し上げた立場をお採りになります。しかし、その方法では問題は解決しません。少なくとも今日の箇所で言われている「光の子」は「教会の交わり」から離れては存在しません。 ただし、その場合の「教会」の意味は場所や建物ではありません。神の言葉が語られ、聞かれ、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いの福音を共に信じ、互いに助け合い、さらに聖餐式や愛餐会を通して共に食卓を囲む信徒同士の交わりこそが「教会の交わり」です。 特に最後に挙げた聖餐式と愛餐会は、教会の最も“物理的な”要素です。一例だけ挙げます。今もコロナ禍が完全に収束していると考えている方はおられないと思いますが、とらえ方は多様でしょう。最もひどい状態...

荒野の誘惑(2024年2月11日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 390番 主は教会の基となり 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「荒れ野の誘惑」 マタイによる福音書3章13節~4章11節 秋場治憲 「そのとき『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」 (2024年2月11日)