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7月, 2021の投稿を表示しています

憐れみの福音(2021年7月25日 主日礼拝)

日本キリスト教団 昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 462番 はてしも知れぬ 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3578号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「憐れみの福音」 コリントの信徒への手紙二5章16節~21節 関口 康 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」 わたしたちは歴史の中で、歴史と共に生きる存在です。信仰を持って生きる者たちも、歴史と無関係であることは決してありません。しかしそれは、全体の流れに調子を合わせて生きることを全く意味しません。とりわけイエス・キリストと共に生きているわたしたち、今日の聖書箇所の言葉を用いて言えば「キリストと結ばれる人」は、全体の流れにむしろ抵抗して、神の真理を語りかつ実践する者として歴史の中に立たされる場面が多いです。 大げさな言い方をこれ以上続けようとは思いません。私個人は、明確な歴史哲学や政治思想のようなものは持っていません。私が政治について話し始めると空想のような話に終始してしまいます。それは実は「キリスト教」と「教会」に対して強い期待を持ち続けているからです。 現在のドイツのメルケル首相の所属政党がキリスト教民主同盟です。メルケル氏自身は牧師の子女です。キリスト教政党は、ドイツだけでなくヨーロッパ各国や南アフリカやオーストラリアなどにもあります。日本でも戦後一度だけ(1977年)「日本キリスト党」という政党が作られたことがありますが、一議席も獲得できず解党しました。そのことと関係ありませんが、その政党の党首だった武藤富男氏が東京都東村山市に作った学校で、私はいま聖書の講師をしています。 もしそういう政党があれば、私はそういうところを応援したいと考えます。しかし存在しないので無党派層に属しています。教会が政党のようにふるまうことにも反対です。それだと政治に対して無責任であるということになるかもしれませんが、他にどうすることもできません。 このような話をするのはオリンピックのことが念頭にあるからです。多くの反対を押し切って開催されました。しかし、始まれば、反対していた人たちも含めて

異邦人の救い(2021年7月18日 主日礼拝)

昭島教会はJR青梅(おうめ)線「中神(なかがみ)」駅の北口から徒歩5分です    讃美歌21 460番 やさしき道しるべの 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3577号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「異邦人の救い」 ローマの信徒への手紙9章19~28節 関口 康 「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」 「いいかげんにしてほしい」と、誰に言うでもなく、呟きたくなる「コロナ、コロナ、コロナ」の毎日です。この文脈であまり言いたくないことではありますが、今の状況が続けば続くほど、聖書の教えがわたしたちをますます苦しめる原因になるかもしれません。 なぜそうなるのかといえば、聖書の教えの基本が、わたしたちの神さまがただおひとりであり、天地万物が創造者なる神の作品であるという点にあるからです。もし聖書の教えが、良いことや楽しいことは神さまが与えてくださるものだけれど、悪いことや悲しいことは神さま以外の別の存在がもたらすものであるというものであれば、逃げ道ができますが、そうではありません。 もし創造者がおひとりであり、万物がそのおひとりの神がお造りになったものであるならば、世界はどうしてこんなにひどいのか、人生はどうしてこんなに苦しいのかを、途中の議論を全部省いて問いと答えだけをつないで言えば「神さまに原因がある」と言わざるをえなくなるのです。 責任問題を言おうとしているのではありません。誰の責任かという問題の答えは、罪を犯した人間にある、ということになるでしょうし、そういう方向に誘導されていくところがあります。結局「人間が悪い」と責められて、その人間の罪をイエス・キリストの十字架によって神さまが赦してくださり、神の憐れみのうちに生かされて生きる謙遜な人生を送ることがキリスト者たる者たちの目指すべき道である、ということで、だいたい話が終わります。 しかし、それはある意味で問題のすり替えです。原因の問題と、責任の問題は、別問題です。それは今日の聖書の箇所に、使徒パウロがいみじくも書いているとおりです。 「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められ

生活の刷新(2021年7月11日 主日礼拝)

昭島教会へようこそ 落ち着いた礼拝堂です    536番 み恵みを受けた今は 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3576号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「生活の刷新」 使徒言行録19章11~20節 関口 康 「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」 今日の朗読箇所と宣教題も、これまでと同じように日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。 日本キリスト教団がそうすることを諸教会に求めているのではありません。あくまで便利に利用させてもらっているだけです。しかし、自分で考えて決めると、自分の狭い興味や関心の中で話してしまうので、それを防ぐメリットがあります。 今日の箇所もそうです。私にとっては自分で選ぶことがまず無いような箇所と宣教題です。 「生活の刷新」という宣教題も『日毎の糧』から戴いた表現です。面白がって使わせてもらいました。現在は、いろんな言葉の意味をインターネットで調べることができます。 「刷新」という言葉を調べてみたところ、複数の辞書を見比べて共通している要素は、「刷」にペンキやほこりを払う「刷毛(はけ)」という道具があるように「こすって清める、はく」という意味があり、つまり従来のあり方の中の悪い部分を取り除く仕方で、よりよき新しいあり方へと変えることを指すと分かりました。 類語として「更新」や「革新」などがあるけれども、それぞれ意味が違うというようなこともずいぶん詳しく説明してくれているウェブサイトも見つけました。 聖書日課の作者がそこまで考えて付けた題かどうかは分かりません。しかし、たしかに今日の聖書箇所に記されているのは、いま申し上げた意味での「刷新」であるということを、このたび学ばせていただきました。 今日の箇所の出来事は、使徒パウロが生涯で3回行った伝道旅行の、3回目のときに起こったことです。19章1節に「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て」と記されていることから、彼がエフェソで遭遇した出来事であることが分かります。 エフェソでのパウロの姿に、少し前の17章に描かれていたアテネにいたときとは違う宣教姿勢を読み取ることができるかもしれません。

祈り(2021年7月4日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)    讃美歌21 458番 信仰こそ旅路を 奏楽・長井志保乃さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3575号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「祈り」 テモテへの手紙一2章1~7節 関口 康 「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」 先週6月27日(日)一人の姉妹の洗礼式が石川献之助名誉牧師の司式によって行われました。主にある仲間が新たに教会に与えられましたことを心から慶び、感謝しています。 キリスト者としての信仰生活の基本は、主の日ごとの礼拝と日ごとの祈りと賛美にあります。もちろんそこに聖書の学びが含まれます。しかし、おそらくどのキリスト教の入門書を見ても、聖書はキリスト教の「正典」であり、「正典」は英語でcanonと言い、「ものさし」や「基準」という意味で、わたしたちの心や日々の生活と照らし合わせながら、神に喜ばれるよりよき人間へと成長するためにあるという趣旨のことが記されています。 それが何を意味するのかを分かりやすくするために少し大げさな言い方をお許しいただけば、聖書そのものはものさし以上ではないということです。ものさしも大事です。しかしそれで測るもののほうがもっと大事です。私たちの心と生活、そして長きにわたる人生のほうが大事です。わたしたちが自分の人生を大切にし、家族や社会、そして教会の仲間と共に、喜んで生きていくために聖書が役立つことがありうるというくらいの線で十分すぎるほどです。 このように申し上げることは、石川先生が過去70年昭島教会で教えてこられたことと軌を一にしていると私は信じています。聖書そのものは、今のわたしたちにとっては、古代文献であるという以外に表現のしようがありません。書かれている内容は、新約聖書は2000年前、旧約聖書は4000年前から2400年前ほどまでの事実とも伝説とも区別をつけにくい事柄です。わたしたちは、そのようなことをあくまで参考にしながら、今の時代の中で現実的に生きることが大切です。 最近私は、学校の授業の中でちょうど40年前の日本のテレビで放送された「アニメ親子劇場」(1981年