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生活の刷新(2021年7月11日 主日礼拝)

昭島教会へようこそ
落ち着いた礼拝堂です

  
536番 み恵みを受けた今は 奏楽・長井志保乃さん

「生活の刷新」

使徒言行録19章11~20節

関口 康

「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」

今日の朗読箇所と宣教題も、これまでと同じように日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。

日本キリスト教団がそうすることを諸教会に求めているのではありません。あくまで便利に利用させてもらっているだけです。しかし、自分で考えて決めると、自分の狭い興味や関心の中で話してしまうので、それを防ぐメリットがあります。

今日の箇所もそうです。私にとっては自分で選ぶことがまず無いような箇所と宣教題です。

「生活の刷新」という宣教題も『日毎の糧』から戴いた表現です。面白がって使わせてもらいました。現在は、いろんな言葉の意味をインターネットで調べることができます。

「刷新」という言葉を調べてみたところ、複数の辞書を見比べて共通している要素は、「刷」にペンキやほこりを払う「刷毛(はけ)」という道具があるように「こすって清める、はく」という意味があり、つまり従来のあり方の中の悪い部分を取り除く仕方で、よりよき新しいあり方へと変えることを指すと分かりました。

類語として「更新」や「革新」などがあるけれども、それぞれ意味が違うというようなこともずいぶん詳しく説明してくれているウェブサイトも見つけました。

聖書日課の作者がそこまで考えて付けた題かどうかは分かりません。しかし、たしかに今日の聖書箇所に記されているのは、いま申し上げた意味での「刷新」であるということを、このたび学ばせていただきました。

今日の箇所の出来事は、使徒パウロが生涯で3回行った伝道旅行の、3回目のときに起こったことです。19章1節に「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て」と記されていることから、彼がエフェソで遭遇した出来事であることが分かります。

エフェソでのパウロの姿に、少し前の17章に描かれていたアテネにいたときとは違う宣教姿勢を読み取ることができるかもしれません。アテネのパウロは「憤慨」(17章16節)していました。「あなたが説いている新しい教え」を聞かせてもらいたいと興味本位で集まってきたアテネ市民に対して腹立ちまぎれの当てこすり説教をするパウロの姿が描かれています。

しかし、エフェソのパウロについては、反対者との直接対決を避ける姿勢があったかのように描かれています。「ある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた」(9節)とあるとおりです。

元々パウロが攻撃性と柔軟性を兼ね備えた人だったのか、それともアテネで示したあからさまな攻撃性が宣教の妨げになったことに自分で気づくなり反省したりして、エフェソを訪れた頃には柔軟な姿勢を学んでいた、というようなことが言えるかどうかは分かりません。しかし、教会の宣教のあり方を考える際の大切な問題が含まれていると私には思えてなりません。

「押してダメなら引いてみろ」と言うではありませんか。全く異なる文脈で用いられる言葉かもしれませんが、全く無関係でもなさそうです。

しかし、今申し上げていることが「生活の刷新」を意味すると申し上げたいのではありません。パウロが自分の宣教姿勢を反省して、強引で攻撃的なものから柔軟なものへと変化させたことがそうであると。そのことが大事でないとは申しませんが、もっと大事なことは、パウロの宣教によって、エフェソの人々の側に「生活の刷新」がもたらされたことです。

今日の箇所で特に興味深いのは、ユダヤ人の祭司長スケワの7人の息子たちが、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」という言葉で悪霊払いをする祈祷師のようなことをしていたと書かれていることです。すると、悪霊が彼らに言い返してきた、というのです。

「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と悪霊が言い出して、このスケワの7人の息子を含む祈祷師たちに飛びかかって来て、押さえ付けて、ひどい目に遭わせて、彼らを裸にして、傷つけてきたので、逃げ出したというようなことが書かれています。

悪霊払い(エクソシズム)については、昔の映画「エクソシスト」で描かれたような怪奇現象が本当にあるのかどうかは、私には全く分かりません。しかし、世界は広いです。わたしたちの知らないことがまだまだ多くあるかもしれない、と言うだけにとどめておきます。

「生活の刷新」に該当するのは、ここから先です。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」という呪文で悪霊払いをしようとした祈祷師たちが悪霊から反撃を受けたといううわさが広がったことで、エフェソの人たちがすっかり恐れを抱いて、信仰に入ったことが記されています。きっかけはなんでもいいかもしれません。

そして、そのうえで、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった」(18~19節)と書かれています。

ここが今日の箇所の核心部分です。「刷新」の意味は「過去の悪いものを刷いて新しくすること」です。キリスト教以外の宗教のすべてが「悪い」と私が言いたいのではありません。各自が自分で気づいて判断するしかない面があります。第三者が命令したり強制したりしてどうなるものでもありません。

しかし、「この道が正しい」と信じた人が、それまで信頼してきたものを抱え込んだままであるか、それともこれまでのもの、過去のものは、きっぱり捨てるかで、その後の歩みに違いが出てくるかもしれません。そのことについては、黙っていないほうがよいでしょう。

エフェソの人たちがキリスト教を受け入れたとき「自分たちの悪行をはっきり告白した」(18節)とか、魔術を行っていた人たちもその書物を「焼き捨てた」(19節)と書かれていることの意味は大きいです。

「銀貨五万枚」は、現在の5億円ほどです。「そんな勿体ないことを、どうして」と考える方もおられるでしょう。焼き捨てたりしないで「魔法図書館」を建てて保存しておけば、21世紀の今ごろ、多くの研究論文のテーマとして取り上げられたかもしれないのに、と。

そういう考えも一理あるかもしれません。しかし、そこから先は各自の判断です。わたしたちは宗教学者になるのか、それともイエス・キリストの十字架を目指して生きるキリスト者になるのかの分かれ道が、いずれ訪れるでしょう。

(2021年7月11日 主日礼拝)

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