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救い主を探し求めて(2021年12月26日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)   旧讃美歌100番 いけるものすべて(1、2節) 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3600号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「救い主を探し求めて」 マタイによる福音書2章1~12節 昭島教会 秋場治憲兄 「来たれ、父に祝福されたる者よ、 世のはじめからあなたがたのために 備えられた王国をつげ」 ( マタイ25章34節)  今日の聖書の箇所は東から来た博士達が星に導かれて、飼い葉おけに寝かされている主イエスの所までたどり着き、ひれ伏して拝し、黄金、乳香、没薬を捧げたというお話です。教会学校のページェントで「遠くの東から ラクダにまたがって 旅する博士 ようやくユダヤの地 みそらに輝いた 星の光の 不思議な導きで うれしい しらせ もつやく にゅうこうと黄金( こがね )の宝物 主イエスにささげ 祝いのしるしです」と子供たちが大きな声で歌います。ページェントが終わってしばらくは、このメロディーが頭から離れません。子供たちの言葉と共に蘇ってきます。とてもメルヘンチックで絵画的で、アラビアンナイトの空飛ぶ絨毯( じゅうたん )が出てきても違和感がないようなお話です。ただこのおとぎ話のような物語もよく読むと、実に深い、味わいのある出来事に満ちていて、私達をしばしこのテキストに釘付けにして離さない力強さがあります。詳しく見ていきたいと思います。  まず私達を驚かせるのは神の子の誕生を祝ったのは、選ばれた民イスラエルの宗教指導者達ではなくエルサレムの神殿の再建に巨費を投じたヘロデ大王でもなく、遠く離れた東の国からやってきた博士達だったということです。新共同訳聖書では「占星術の学者たち」と訳されていますが、当時天体をみることは決して特殊なことではなく、知者、賢者と呼ばれる人たちの共通の知識であったようです。天文学だけではなく、医学、思想なども含めて広く生活全般にわたって豊かな知識を有していたようです。従って必ずしも占星術に限る必要はなく、口語訳の「博士たち」という訳語が妥当性を欠いているとも思えません。むしろ現代においては「占星術」というと何か

クリスマスの平和(2021年12月24日 イブ礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます ルカによる福音書2章1~7節 関口 康 「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」 クリスマスおめでとうございます。クリスマスイブ音楽礼拝にお集まりいただき、ありがとうございます。 昨年は行うことができませんでした。今年はこんなに大勢の方々がご出席くださり、本当にうれしく思います。 私は今年、昭島教会の牧師をしながら、3つの学校で聖書を教えています。どうもその悪影響が出ているようです。教会の方から「最近の関口先生の説教は聖書の知識についての話ばかりで、まるで学校の先生のようです」というご指摘がありました。学校に染まりすぎかもしれません。 しかし、今日もお許しください。今日の箇所に登場する「皇帝アウグストゥス」とは何者なのかの説明から話を始めます。歴史的な説明を避けることができません。 ジュリアス・シーザーの名前は、ご存じでしょうか。シェークスピアの劇で、暗殺されるとき「ブルータス、お前もか」と叫ぶ人。あのシーザー(ユリウス・カエサル)の後継者がアウグストゥスです。 シーザーまでのローマは共和制でした。まだ比較的みんなで相談して決める政治の形が残っていました。しかしシーザーが独裁者になって暴走しはじめたので、それを食い止めるためにブルータスたちによって暗殺されました。それは悲劇でした。 しかし、そのシーザーの後継者がアウグストゥスです。アウグストゥスはシーザー以上の独裁者になりました。地中海沿岸のほとんどの地域を強大な軍事力で制圧し、支配しました。 ところが、その独裁者とは真逆の姿で真の救い主がお生まれになったというのが、今夜の箇所の主旨です。「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た」(1節)のは、ローマ帝国に税金を納める人の人数を調べるためです。 それでやむをえず、イエスさまがお腹にいる母マリアと夫ヨセフが、その住民登録のために遠くまで旅をしなければなりませんでした。強いられた感、やらされている感の中で、ひきずりまわされ、ひどく辛い目に遭わされました。 しかし、同じ目的で移動中の宿泊者が多く、宿屋

キリストの降誕(2021年12月19日 クリスマス礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) クリスマス讃美歌メドレー 奏楽・長井志保乃さん 字幕:富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3599号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「キリストの降誕」 ルカによる福音書2章8~20節 関口 康 「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」 クリスマスおめでとうございます。 昭島教会の2021年度のクリスマス礼拝です。クリスマスは世界の大多数の教会で12月25日がそれだとされています。そして12月25日に近い日曜日にクリスマス礼拝をするのが日本の多くの教会が採っている形です。 「大多数が」と言いましたのは例外があるからです。今はインターネットで何でもすぐ調べることができます。アルメニアという国では、1月6日がクリスマスだそうです。クリスマス礼拝を日曜日にすることも、教会によって考え方が違うので、例外なく、おしなべて、世界共通の、という言い方をしないほうがよいです。 昭島教会のことを申し上げます。11月7日に「昭島教会創立69周年記念礼拝」を行いました。つまり、今日は昭島教会の「第69回」クリスマス礼拝です。来年は「第70回」です。 今日の週報の通し番号が「第3599号」です。この番号は昭島教会の聖日礼拝の回数を表しています。今日は昭島教会の3599回目の礼拝であり、来週は3600回目の礼拝です。「3600」を一年の日曜日の回数の「52」で割ると「69.2307…」です。 その間、石川献之助先生が今日に至るまで昭島教会の牧師を続けてこられたことは、みなさんのほうがご存じです。しかし、牧師がひとりでいることが礼拝ではないし、教会でもありません。教会のみなさんが教会であり、みんなで集まることが礼拝です。来週3600回目の聖日礼拝を行う昭島教会の69年の歩みの中で、牧師以外だれもいない礼拝が行われたことはないことを意味していると思います。これは本当に素晴らしいことです。 昭島教会の話をしているのに私の話をするのは場違いですが、来週12月26日の日曜日が私の受洗

主の道を備える(2021年12月12日 待降節礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3598号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「主の道を備える」 イザヤ書40章1~11節 関口 康 「呼びかける声がある。主のために荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために荒れ野に広い道を通せ。」 今日の聖書の箇所は旧約聖書のイザヤ書40章です。イザヤ書についてはだいたい定説になっている読み方があることを確認する必要があります。それはイザヤ書の1章から39章までを書いた預言者イザヤと、40章以下を書いた預言者とは、別の時代の別の人であるということです。 なぜそのように言えるか。1章から39章までを書いた預言者イザヤは、この人が紀元前8世紀の南ユダ王国のウジヤ王の顧問官だったことが分かる内容が記されています。それに対し、40章以下に描かれているのは紀元前6世紀の出来事です。特に44章28節に出てくる「キュロス」という名前の人物は、紀元前6世紀のペルシアの王です。 そのため、紀元前8世紀の「本来の」イザヤが2世紀も隔たりがある紀元前6世紀のペルシアの王の名前を知っていたはずがないという推論が働き、要するに40章以下は紀元前6世紀の人が書いたとしか言いようがないという結論になったという次第です。イザヤ書40章以下を、39章までの預言者と区別するための学説上の名称は「第二イザヤ」と言います。 さらにもう少し言えば、「第二イザヤ」の範囲は40章から始まってイザヤ書の最後まで、ではなく、「第二イザヤ」の終わりは55章までで、56章から66章まではさらに別の預言者が書いたものだと言われます。その部分の著者を、学説上の名称で「第三イザヤ」と言います。 「第三イザヤ」の時代は「第二イザヤ」と同じ紀元前6世紀です。しかし、「第二イザヤ」との違いは思想や用語が違うと言われます。ヘブライ語の聖書を読むことができる学者がイザヤ書を読むと、55章から56章に移るところでがらっと文体や語調が変わる様子が分かるそうです。 しかし、このような、同じ「イザヤ書」の中に異なる時代の別の預言者の言葉が含まれているという学説は、それが定説として受け入れられるまでにしばらくの年月がかかったと

受胎告知(2021年12月5日 待降節礼拝)

日本キリスト教団昭島教会〔東京都昭島市中神町1232-13) 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3597号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「受胎告知」 ルカによる福音書1章26~38節 関口 康 「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』そこで、天使は去って行った。」 今日から、礼拝の司会を牧師が行う緊急事態方式を終了し、本来の方式に戻します。現時点では日本国内は爆発的感染と言えるような状況にないからです。またどうなるか分からないというのが正直な気持ちであり、みなさんも同じお気持ちでしょう。しかし、それでも「できることをできるうちにする」という姿勢が大事です。 礼拝の司会の件は、それをだれがすべきかという議論が目的ではなく、礼拝当番表を作成するのを中止することが目的でした。教会のすべての奉仕は自発的なものでなければならず、義務や責任という観点からうんぬんされるべきではありません。しかし、当番表があると礼拝の出席や奉仕が強制的なものと感じられ、感染症対策の観点から外出を控えたくても義務感が生じるので、当番表の作成自体をストップしましょうと役員会で決めた次第です。 しかし礼拝の司会をすべて牧師が行う方式は長く続けるべきではありません。礼拝の雰囲気がどうしても一本調子になります。慣れるとそのほうが良くなるかもしれませんが、まさにそれが危険です。 学校も似ている面があります。感染症対策の観点から校舎での対面授業をすべて取りやめて、インターネットを活用したリモート授業に切り替える措置をとった学校が多くありました。それにみんなが慣れてくると、もうずっとそのほうがいいという空気になりそうな勢いを感じました。しかし、リモート授業は本来の形ではなく、緊急措置です。対面授業とリモート授業は全く別のものです。良し悪しの問題ではなく、異なるものを同一視してはいけません。 教会の礼拝も、牧師の声だけが響く形でなく、教会のみんなで作り上げていく形が、昭島教会の本来の礼拝です。異なるものを同一視してはいけないという観点を忘れずにいましょう。再び状況が悪化してきたら、いつでも緊急自体方式に移行するという柔軟な姿勢でいたいと願いま

神、我らと共にいます(2021年11月28日 待降節礼拝)

宣教「神、我らと共にいます」 秋場治憲(あきば はるのり)兄 讃美歌21 280番 馬槽のなかに 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3596号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「神、我らと共にいます」 マタイによる福音書1章18~25節 昭島教会 秋場治憲兄 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」 今日はアドベント第1主日、アドベントの季節に入って迎える最初の聖日ということになります。では、そもそもアドベントとはいったい何なのだろうか、そういう疑問がわいてきます。アドベントというのはラテン語のadvenio(アドベニオー)という言葉に由来しています。これは「近づく」「到着する」「やって来る」という意味の動詞です。Ad というのは英語のtoに当たる言葉で~の方へ、~に向かってという接頭語です。これにvenio という「やって来る」という動詞がつながった形です。ではいったい何が何に向かってやって来るのか、ということになります。聖書は神の子が私たち一人一人を目指してやって来る、やって来たのだ、と宣言しているのです。 私たちはよく神とは何であるのか、とよく考える。哲学者たちも考える。では聖書は何と言っているのか。聖書は「神は愛である 」と証言しています。愛というのは一人では成立しません。そこには必ず「愛する者」と「愛される者」が大前提として含まれています。この関係から愛を切り離して、神だけを捉えようとするのが哲学であり思弁 と言われるものです。私たちはこの哲学的な思弁に引き込まれないように、気を付けなければなりません。神を客体化して眺めることはあっても、その神によって慰められたり、励まされることはない。キリスト教の神、聖書の神は「愛である」とは、必ずそこには相手がいるということです。そして愛するということは、その相手に連帯化するということ、その相手の立場に立つということです。「人間を愛する神」と「神によって愛される人間」が大前提として含まれているということです。 アダム以来罪の縄目に打ちひしがれている者たちを、神の

信仰を受け継ぐ(2021年11月21日 主日礼拝)

収穫感謝礼拝(2021年11月21日) 讃美歌21 358番 小羊をばほめたたえよ! 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3595号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「信仰を受け継ぐ」 サムエル記上16章5b~13節 関口 康 「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼(ダビデ)に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。」 先週の説教の冒頭で申し上げたことを繰り返します。いま私が毎週の聖書箇所を決めるために用いている日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』で、クリスマスの前に旧約聖書を取り上げることになっていることには意味があります。 イエス・キリストのご降誕をお祝いするのがクリスマスです。イエス・キリストのご降誕には旧約聖書に示された神の約束が実現したという意味があります。その意味を明らかにするために、クリスマスの前に旧約聖書を学ぶことが大事です。 信仰の父アブラハムから始まるイスラエルの歴史の中で待ち望まれたキリストが本当に来てくださったと、十字架にかかって死に、三日目に復活されたナザレ人イエスと初めて出会った人々が信じました。イエス・キリストは苗字と名前ではありません。「旧約聖書に約束されたキリストがこのイエスである。このイエスこそあのキリストである」という関係をあらわす言葉です。 「イエス」は固有名詞です。「キリスト」はいわば肩書きであり、職務です。「キリストという仕事」があるという意味になります。そのことを具体的にあらわすために、イエスとキリストの間に中黒(・)ではなく、等号(=)を書く人がいます。新約聖書の中にも「イエス・キリスト」という語順だけでなく、「キリスト・イエス」と逆になっている箇所があります(ローマの信徒への手紙1章1節、テサロニケの信徒への手紙一2章14節、テトスへの手紙1章4節など)。 しかし、日本語の旧約聖書のどこを開いても「キリスト」は出てこないではないかと思われる方がおられるかもしれません。それは日本語の聖書だからです。「キリスト」はギリシア語ですが、旧約聖書はヘブライ語で書かれました。ヘブライ語の「メシア」(マ

信仰と決断(2021年11月14日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 474番 わが身の望みは 奏楽・長井志保乃さん、字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3594号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「信仰と決断」 創世記13章8~18節 関口 康 「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。」 先々週、先週、そして今日と、3回続けて旧約聖書の創世記を開いています。日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に従っています。 この時期に旧約聖書の学びをするのは、クリスマス礼拝が近づいていることと関係あります。新約聖書とキリスト教会の視点から言うと、わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになったことには旧約聖書の神の約束が実現したという意味があるからです。 今日の箇所の登場人物も、先週と同じアブラハムです。「信仰の父」と呼ばれることがある存在です。イスラエル民族の初代族長です。アブラハムが旧約聖書で初めて登場するのは創世記11章27節です。 それはアブラハムの父の名がテラと言い、そのテラの系図の中にアブラハムの名前が出てくる箇所です。ただし、そこに記されているのは「アブラム」という名前です。「テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれた」と書いてあるとおりです。 この「アブラム」がその後「アブラハム」と名前を変える場面も、創世記の中にしっかり記されています。17章5節に神さまの言葉として「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである」と書かれているとおりです。 この改名にはもちろん意味があります。「アブラム」という名前の意味は「偉大な父」であるのに対し、「アブラハム」の意味は「多くの民の父」です。 このアブラハムが「イスラエル民族の初代族長である」と先ほど言いましたが、「イスラエル」という呼び名はアブラハムの頃にはまだなく、この名前が登場するのは創世記32章29節です。アブラハムの孫の三代目族長ヤコブに(おそらく)神が「お前の名はもうヤコブではなく、これからイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝った

神の民(2021年11月7日 教会創立69周年記念礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) オリジナル讃美歌「善き力にわれかこまれ」 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3593号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「神の民」 創世記15章1~15節 「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」 今日は「昭島教会創立69周年記念礼拝」です。今日の週報に記しましたように、1952年11月2日に日本キリスト教団昭和町伝道所として最初の礼拝を守り、今年は数えて69年になります。 昭島教会50周年誌『み足のあと』(2002年)の「年表」によると、1952年11月2日の週報が「第1号」です。そして今日の週報が「第3593号」です。それは3593回の聖日礼拝が行われたことを意味します。最初の礼拝から今日まで69年間、石川献之助先生が昭島教会の伝道と牧会を続けて来られました。途中で一度隠退されましたが、協力牧師の立場にとどまられ、その後主任牧師に復帰されました。今年からは名誉牧師になられました。 ただし、今日の礼拝を含めた3593回の礼拝の中に、昨年(2020年)4月からたびたび出された緊急事態宣言との関係で「各自自宅礼拝」として行った回が含まれています。週報についても、合併号を作成して発行部数を少なくした時期もありますが、礼拝の回数は間違っていません。 しかし、『日本基督教団年鑑』では昭島教会の設立日は「1951年4月30日」であるとされています。そのとおりであれば、今年は創立70周年です。なぜこの違いが生じたのでしょうか。これも昭島教会50周年誌に答えがあります。教団年鑑記載の「1951年4月30日」は青梅教会の久山峯四郎牧師が兼務担任教師として昭和町伝道所の設立届を提出した日です。しかし教会員はゼロでした。だれもいないところに石川先生が招聘されました。そして最初の礼拝を行ったのが69年前の「1952年11月2日」ですので、その日が創立記念日であることに十分な理由があります。 この問題には「教会とは何か」という根本的な問いが含まれています。『み足のあと』によると、昭和町に阿佐ヶ谷教会

救いの約束(2021年10月31日 永眠者記念礼拝 宗教改革記念礼拝)

讃美歌21 510番 主よ、終わりまで 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3592号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「救いの約束」 創世記45章1~8節 「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」 今日の礼拝は「永眠者記念礼拝」です。同時に「宗教改革記念礼拝」でもあります。さらに来週11月7日(日)は「昭島教会創立69周年記念礼拝」です。この3つの「記念礼拝」は、昭島教会で毎年この時期に行っていますので、ぜひご予定ください。 その中で「永眠者記念礼拝」は世界のキリスト教会が重んじ、日本キリスト教団も準じている教会暦にある「聖徒の日(永眠者記念日)」が11月1日で、「記念礼拝」は11月の第1日曜日に行うことになっているので、教会暦どおりなら今年は11月7日(日)です。 しかし、昭島教会はいつからそうするようになったかは私には分かりませんが、その教会暦の「聖徒の日(永眠者記念日)」よりも1週前に永眠者記念礼拝を行うことにしています。教会暦はわたしたちが絶対守らなければならないものではありません。あくまでも参考にするだけです。 1週ずらして行う理由は2つあると聞いています。ひとつは、永眠者記念礼拝の午後に墓前礼拝を行いますが、昭島教会墓地の周囲一帯がキリスト教墓地で、他の教会の墓前礼拝と重なって混み合うケースがあるので、それを避けるため、という実際問題です。 もうひとつは、必ず11月の第1日曜日には昭島教会の創立記念礼拝を行うので永眠者記念礼拝と重ならないようにするためです。昭島教会は1952年11月2日に「日本基督教団昭和町伝道所」として伝道を開始しました。その日から数えて今年で69年になります。 3つの「記念日」はすべて日付が決まっています。早い順でいえば、10月31日が宗教改革記念日です。翌日の11月1日が聖徒の日です。その翌日の11月2日が昭島教会の創立記念日です。それぞれの「記念礼拝」は最も近い日曜日に行います。 説明に時間を割いているのは、3つの「記念日」は関係あると申し上げたいからで

水とぶどう酒(2021年10月24日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます 週報(第3591号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます 宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます 「水とぶどう酒」 ヨハネによる福音書2章1~11節 昭島教会 秋場治憲兄 「イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』」  今日の聖書箇所は主イエスが最初に行われた奇跡として、とても有名です。よきサマリア人の譬と同じように、知らない人はいないといっても過言ではないと思います。余りにも自明で、簡潔な物語として、さしたる感動もすることなく、私たちは足早にこの奇跡の横を走りぬけてしまうのではないでしょうか。今日はこの余りにも自明で、簡潔な奇跡の前で、じっくりと腰をおろし、この出来事に耳をすませてみたいと思います。  ヨハネ福音書を一章から読み始めてまず感じるのは、バプテスマのヨハネと主イエスの対比が色濃く出てきていることに気づかされます。ヨハネは「荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。 [1] 」ヨハネは荒れ野に出て行った。彼はらくだの毛衣を着て、腰に皮の帯を締めいなごと野密を食べ物としていた。ヨハネは律法に厳格に従い、禁欲的な生活をしていた。一方主イエスは弟子たちと婚礼に出席した。一方は人間の世界から出ていく。他方主イエスは入ってくる。バプテスマのヨハネは律法学者、ファリサイ人に対して「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。私は、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、 私の後から来られる方は、私よりも優れておられる。私はその履物をお脱がせする値打ちもない。 その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。 [2] 」と排他的ともいえる厳しさで迫る。これがヨハネにとって主の道を真っ直ぐにするということ。 [3] しかし、主イエスは彼らを排除していない。 三 章に入るとファリサイ派のニコデモ [4]