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救い主を探し求めて(2021年12月26日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

 
旧讃美歌100番 いけるものすべて(1、2節) 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん
マタイによる福音書2章1~12節

昭島教会 秋場治憲兄

「来たれ、父に祝福されたる者よ、世のはじめからあなたがたのために備えられた王国をつげ」マタイ25章34節)

 今日の聖書の箇所は東から来た博士達が星に導かれて、飼い葉おけに寝かされている主イエスの所までたどり着き、ひれ伏して拝し、黄金、乳香、没薬を捧げたというお話です。教会学校のページェントで「遠くの東から ラクダにまたがって 旅する博士 ようやくユダヤの地 みそらに輝いた 星の光の 不思議な導きで うれしい しらせ もつやく にゅうこうと黄金(こがね)の宝物 主イエスにささげ 祝いのしるしです」と子供たちが大きな声で歌います。ページェントが終わってしばらくは、このメロディーが頭から離れません。子供たちの言葉と共に蘇ってきます。とてもメルヘンチックで絵画的で、アラビアンナイトの空飛ぶ絨毯(じゅうたん)が出てきても違和感がないようなお話です。ただこのおとぎ話のような物語もよく読むと、実に深い、味わいのある出来事に満ちていて、私達をしばしこのテキストに釘付けにして離さない力強さがあります。詳しく見ていきたいと思います。

 まず私達を驚かせるのは神の子の誕生を祝ったのは、選ばれた民イスラエルの宗教指導者達ではなくエルサレムの神殿の再建に巨費を投じたヘロデ大王でもなく、遠く離れた東の国からやってきた博士達だったということです。新共同訳聖書では「占星術の学者たち」と訳されていますが、当時天体をみることは決して特殊なことではなく、知者、賢者と呼ばれる人たちの共通の知識であったようです。天文学だけではなく、医学、思想なども含めて広く生活全般にわたって豊かな知識を有していたようです。従って必ずしも占星術に限る必要はなく、口語訳の「博士たち」という訳語が妥当性を欠いているとも思えません。むしろ現代においては「占星術」というと何か得体のしれない、いかがわしさが感じられる部分もありますので、個人的には口語訳の「博士たち」がいいように思います。

 遠くの東の国というと連想されるのはチグリス、ユーフラテス川流域あたりでしょうか。ユダヤの東に広がる異邦の国々全体を指しているのだと思います。その地方の博士たちが「ユダヤ人の王」の誕生を知らせる星を観測したというのです。そもそもユダヤから遠く離れた東の国の博士たちが、どうしてユダヤ人の王の誕生を知るに至ったのでしょうか。考えられるのは、北王国イスラエルは紀元前721年に、アッシリア[1]によって滅ぼされイスラエルの民はアッシリアに連れて行かれました。そして多くの異邦人たちがイスラエルに移住してきました。また紀元前586年にはエルサレムがバビロンによって滅ぼされ、南王国ユダの民はユーフラテス川流域でペルシャ湾に近く、アッシリアの首都ニネベよりも更に下流のバビロンへ連れて行かれます。この捕囚は70年に及びます。この間にイスラエルの民は世界四大文明の一つメソポタミヤ文明発祥の地において、多くを学びました。それはこれから編纂される旧約聖書にも反映されていきます。同時にイスラエルの民は世界各地に離散していきます。ユダヤ人が離散していった土地で多くを学んだように、その土地の人々もユダヤ人の信仰について学ぶ機会となりました。国家としての体をなさなくなったイスラエルの民のメシア待望は、益々強くなっていったことでしょう。これは当然東から来た博士達がメシア待望について知る機会にもなったと思われます。

バビロン捕囚はイスラエルの民にとっては悲劇でしかなく、何の望みもなくなってしまった時に、一人エレミヤがこの捕囚は長期にわたるが必ず終わりが来る。だからあなたがたは、決してその数を減らしてはならない、希望をもてと引かれていく人々に語りかけています。信仰とは望みえない時に、なお信じること。横道に反れますが、神がアブラハムを外に連れ出し、天を仰がしめて、「あなたの子孫はこのようになる。[2]」と言われた。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」しかしアブラハムはすぐに、印を求めるのです。「わが神、主よ。この土地を私が継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」とその約束のしるしを求めています。主はそれを不信仰だと言って退けず、「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とを私のもとに持ってきなさい。[3]」と命じ、(アブラハムは)鳥以外の動物を真っ二つに切り裂いた。そしてそれぞれを向かい合わせに置いた。イスラエルの行く末が語られた後、「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明[4]が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラハムと契約を結んで言われた。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、・・・・の土地を与える。」これは約束を破った時は、これら切り裂かれた動物のようになるということでした。ここではヤーウエのみが一方的に契約を守る保証をされたのです。アブラハムとの契約は、神の一方的な契約でした。信じられないでいるアブラハムへの、神の方からの一方的な真実の保証でした。

バビロン捕囚という暗く、何ら望みなき状況において、神は異邦人への宣教という足掛かりをつくっていったということもできます。またギリシャのアレクサンダー大王がエジプト、イスラエルを含んで遠くインドとの国境線までという大帝国を築き、コイネー(共通語)と呼ばれるギリシャ語を普及させたことも福音が世界に伝えられるのに大きな役割を果たしたということができます。新約聖書に信仰をもった多くの異邦人が登場してくるのも、離散したユダヤ人たちから学んだものと思われます。主イエスの時代にはローマ帝国内のかなり広い地域に、ユダヤ人のメシア待望思想が行きわたっていたとのことです。ルカ福音書3:15には「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」とあります。また前頁の注1で上げた「ギリシャ生まれのシリア・フェニキアの女」の信仰が、マタイ福音書では主イエスが「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。[5]」と賞賛しています。またマタイ福音書8:5以下には主イエスがローマの百人隊長の信仰を賞賛した記事が掲載されています。これらのことを考え合わせると、遠く東の国の博士たちが不思議な星の導きでエルサレムまでやってきたことも、全く根拠のないおとぎ話と切り捨ててしまうのではなく、そこに盛られている使信に耳を傾けるべきものだと思います。

 マタイ福音書に戻りますが、「ユダヤ人の王」と聞いて、ヘロデ大王[6]は不安になります。なぜなら彼はローマ帝国の皇帝アウグストから「ユダヤ人の王」という称号を与えられていたからです。また「東方でその方の星を見た」ということもさらにヘロデ大王を不安に陥れたことと思われます。そしてその不安は一人ヘロデ大王だけのものではなく、「エルサレムの人々も皆、同様であった。」とマタイは記しています。ヘロデ大王が不安になったのは分かりますが、どうして「エルサレムの人々」が不安にかられたのか私の長い間の疑問でした。最近になってこれは「東方で」という言葉にその疑問を解く鍵があるのではないだろうかと思うようになりました。「東方」というのは、チグリス・ユーフラテス川流域の国々が思い起こされますが、ペンテコステ(過ぎ越しの祭り)に集まってきていたこの流域の人々は、パルティア、メディア、エラム、メソポタミヤからの人々でした。そしてこれらの国々はローマに次いで強力な国々でした。猜疑心の強いヘロデ大王の頭の中では、この東の国々と新しい「ユダヤ人の王」が結びつき、自分の地位を脅かす存在になるのではないかと危機感を持ったことでしょう。そうすればまた戦争が始まります。現状はローマの支配下にはあるが、一応平和な世となりエルサレムの人々もパックス・ロマーナ(Pax Romana ローマの平和)を享受できていました。あらたな「ユダヤ人の王」の誕生は、新たな戦争の火種になるのではないか、と思われたのではないでしょうか。

そしてヘロデ大王はこの子を抹殺しなければならないという思いを実行に移すために、彼はまず国中の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシア誕生の地はどこかと問いただします。さすがにヘロデ大王です。命令一下、即座に国中の「祭司長や律法学者たちを皆集め」た、というのですから、その権力が如何に大きなものだったか、また世の知者たちが何はさておいても即座に馳せ参じたというのですから、その大きさが偲ばれます。また集められた祭司長、律法学者たちは即座に、それは「ユダヤのベツレヘムです。」と答えたようです。「ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである。」というミカ書5:1の言葉を引用して答えています。しかしこれはミカ書からの忠実な引用ではありません。マタイ福音書では「ユダの地、ベツレヘムよ」となっていますが、これはミカ書では「エフラタのベツレヘムよ」となっていて、「ユダの地」という言葉はどこにもありません。エフラタというのは、ベツレヘムの元々の地名でベツレヘムの別名です。創世記48章7節にはヤコブがその妻ラケルを葬った時の話が出ています。「私はパダンから帰る途中、ラケルに死なれてしまった。あれはカナン地方でエフラトまで行くには、まだかなりの道のりがある途中でのことだった。私はラケルを、エフラト(エフラタ 口語訳)、つまり今のベツレヘムへ向かう道のほとりに葬った。」と記されています。ではマタイはどうしてベツレヘムの別名でしかないエフラトを「ユダの地」と変えてしまったのでしょうか。このミカ書の言葉をそのまま引用したなら、メシアを宿すという栄誉はベツレヘムのみに限定されてしまいます。これを読むユダヤ人達にとって、エルサレムは依然として自分たちの信仰の総本山です。マタイが南王国ユダ、そしてエルサレムとユダヤ人達に配慮したからだとも言われています。 

集められた祭司長たち、律法学者たちが引用したミカ書をみてみましょう。ミカ書5:1では「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、私のために イスラエルを治める者がでる。」となっています。マタイは「エフラタ」を「ユダの地」と変更しただけではなく、ミカ書では「いと小さき者(である)」という言葉を「いちばん小さいものではない」と変更しています。この小さいという言葉は私達にも馴染みのあるミクロスという形容詞の最上級が使われています。英語ではlittleリトル の最上級least(リースト)が用いられています。そしてその直前に最も小さい者(いちばん小さいもの)、とるに足らない者ではないととても強い否定語[7]が置かれています。そして私はここにマタイの信仰があり、クリスマスのメッセージがあるのではないかと思うのです。

マタイはミカ書では並列に並べられているだけの言葉を「なぜなら~から」という接続詞でつないで記しています。「ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。(なぜなら)お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである[8]つまり現実にはベツレヘムは弱く、極めて小さき者であるけれども、お前からイスラエル全体を治める牧者がお生まれになるのだから、お前は決していと小さき者ではないというのです。エルサレムに勝るとも劣らない町になるというのです。しかしそれはベツレヘム自身の力によるものではなく、この指導者(牧者)によることなのだというのです。これは私達は自分の真実によって真実な者とされるのではなく、神の真実(御子の真実)によって真実な者とされるということです。自分の真実に信頼する者は、砂の上に家を建てた者に譬えられ、神の真実によって真実な者とされた者は、岩の上に家を建てた者に譬えられています[9] 

 このことは私たち自身に置き換えることができます。私たちは罪にまみれており、常に自分の喜びや利益が最優先である者です。十戒の第1戒においてつまずくものです。しかしこの私達の世界に「ご自身を喜ばせることをしなかった方[10]」が来られたというのです。十字架の死に至るまでその従順を貫かれた方が、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになった、と聖書は静かに、そして高らかに告げているのです。なぜならこの方の従順の衣が、我らに着せられ、その純白の衣によって我らは傷なき者、全き者として神に迎えられるというのです。クリスマスとはこの神の真実が、布にくるまれた幼子として私達にプレゼントとして贈られた日なのです。しかもそれは無代価で、恵みとして与えられたというのです。だからハレルヤ、ハレルヤなのです。更にその真実は、世の終わりまであなた方と共にあって、あなた方から離れることはないというのです[11]

我らが神と共にいるからではなく、神が我らと共にいるというのです。

 詩編32篇1節に

    いかに幸いなことでしょう

    背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。

    いかに幸いなことでしょう

    主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

 この幸いな者とは他ならぬダビデであり、私達のことです。クリスマスの夜、寒風吹き抜ける馬小屋で、この神の真実が、私達の罪を咎を背きを赦し、覆って、私達を全き者、傷なき者となし、御国に迎えられるというのです。

 「来たれ、父に祝福された者よ、世の初めからあなた方のために備えられた王国を継げ」(マタイ福音書25:34)

 神の国は備えられつつあるのではなく、既に備えられているのです。私達が

御国に値する者になるのではなく、神の国が私達に値するものとして私達のも

とに届けられたのです。神の国は私達資格なき者、否、まず処罰にこそ値すべ

き者に好意を向けたもう父なる神の憐憫によって、無代価で提供されているの

です。

 それにしても神は驚くべきお方です。ヘロデ王の権力をさえ利用して、博士達に御子のところへ向かう道をしめされたのです。もっと正確に言うなら、御子を殺害しようとするヘロデの殺意をさえ利用して、国中の祭司長、律法学者たちを集めさせ、その道を博士達にしめされたのです。これは驚きです。敵陣深く迷い込んだ博士たちを、その敵の悪意を利用して、救い出したのです。ただに救い出しただけではなく、御子のもとへと導かれたというのですから、我らの思いをはるかに超えています。私たちは自分の置かれている状況が、わずかに暗転しただけで右往左往してしまいますが、「恐れるな、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。[12]」という言葉に身の引き締まる思いが致します。

そしてヘロデ大王は、ひそかに博士達を呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう。」とその狡猾ぶりを聖書は伝えています。この「ひそかに」という言葉は、誰に対して「ひそかに」なんでしょうか。これは自分の側近たち、国中から集めた祭司長たち、律法学者たちに対してもという意味です。「ユダヤ人の王」として生まれた者を殺害しようという意図を、自分の側近たちにも知られないようにするためです。ヘロデ王も彼の側近たちもユダヤ人です。皆ダビデ王の再来としてのメシアを待ち望んでいたはずです。しかしヘロデ王にとっては、それは自分の地位を危うくする者以外の何物でもなかったのです。そして博士たちに「星の現れた時について詳しく聞き」(口語訳)、「星の現れた時期を確かめた」(新共同訳)のです。ヘロデは自分の地位を危うくする「ユダヤ人の王」を殺害するために、着々と準備を進めているのです。そのために必要な情報を聞き出したヘロデ王は、その博士たちをベツレヘムに向けて送り出します。ヘロデ王の宮殿を出るとかつて自分たちを導いてきた星が、更に輝きを増して彼らを導きました。彼らの心は喜びに満たされ、足取りも軽く御子のもとへとたどり着きました。私は博士たちは驚いたと思います。ユダヤ人の王は宮殿ではなく、寒風吹き抜ける馬小屋で、温かい羽毛布団ではなく、粗末な布にくるまれて飼い葉おけの中でワラを寝床としてお生まれになっていた。博士たちがこの落差を埋めるのにどれくらいの時を必要としたのかについては、聖書は触れていません。いずれにしても博士たちはこの幼子にひれ伏し、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。どれも非常に高価なものです。

 古来、これらの贈り物が何を意味しているのか議論されてきました。黄金は王を、乳香は苦難に満ちたその生涯によき香りを献げるもの、没薬はその葬りのためまた薬とも言われています。これらはいずれも耳を傾けるに値するものですが、私はその直前にある「自分達の」という言葉に注目したい。この言葉は日本語訳には訳出されていませんが、英語でも訳出されています。

Opening their treasures`直訳すれば、「彼らは(それぞれ)自分達の宝の箱を開けて」となります。黄金、乳香、没薬、いずれも非常に高価なもの、自分にとって掛け替えのないものを献げたと読むこともできる。これら自分にとっての宝物を献げて、その前に膝づく時、この幼子を自分の主として受け入れることになる。信仰を持つということは、私自身における《主権の交代》なのです。それまで自分が自分の王であり、支配者であり、主権者であったのが、この幼子を王として、支配者として、主権者として受け入れるということであり、この幼子を王として拝する時、それまで自分を支配してきていた一切の支配から、この世の様々な霊力から解放される。聖書には「あなた方の宝のあるところに、あなた方の心もあるからである。[13]」と言われている通りです。

  それにしてもヘロデ王、祭司長達、律法学者達、そしてエルサレムの住人達の誰一人として、この博士達と共にベツレヘムへ向かった者はいなかったのです。聖書は彼らの心の内については何も伝えていません。ルカ福音書の羊飼い達が「さあ、ベツレヘム行こう。主が知らせて下さったその出来事を見てこようではないか。」そして彼らは駆け出した、というのと対照的です。ヘロデ王にも、祭司長達にも、律法学者達にもメシア誕生の知らせは真っ先に知らされたのです。しかし自分の義で満ち満ちている彼らには、届かなかったのです。

「私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」「健康な者に医者はいらない。いるのは病人である。」彼らは自分自身に対する主権を手放そうとはしなかったのです。

  こう考えてくると私達が様々な困難に出会い、自分の無力を思い知らされ、その罪深さを悟らされたことは、私達のうちに神が座すべき場所をあけることではなかったか。自分の中に誇るべき何物もないということを知らされたということは、何という祝福であったことかということに思い至るのです。それらの出来事は、神が我らを見捨てたからではなく、《まことの王》が私達の内にその座を占めるためであった。そしてこの《まことの王》は、本来彼が座すべき場所に我らを座らせ、我らが行くべき道を代わって歩まれたのです。

  黄金、乳香、没薬は確かに博士達が主イエスに捧げたもの、しかしこれは同時に主イエスがそれらの贈り物を受け入れられたということ。私達が自分の人生を振り返って見たとき、一体何をしてきたのだろうかと思わされることがある。家族のために一生懸命働いてきた。子供を育てることに精一杯だった。とりたてて誇るべきものは何もない。暗澹たる想いに支配されることがある。それでもその都度、私達は夜空に輝く星を探しながら、祈りながら歩んできた。この方は我らの目には見るべきものもない人生を、黄金の旅路として、神に対してよき香りをささげるものとして受け入れられたということなのだと思います。なぜならただそのことの為に、神はこの幼子を私達のもとへと遣わされたからです。

 一年の終わりに東方からの博士達の旅路に思いを馳せ、「背きを赦され、罪を覆っていただいた者」の幸いを感謝しつつ、新しい年を迎えたいと思います。


[1] アッシリアのサルゴンⅡ世はサマリヤに外国人を移住させ、ここにイスラエル人と異教徒との雑婚が始まりました。(列王記下17:24)更にアレクサンダー大王はB.C.332マケドニヤ人をサマリヤに植民させました。新約聖書のマルコ福音書7:24~30にツロ・フェニキアの女の話が出てきます。新共同訳は「女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであった。」と伝えています。この記事の平行記事はマタイ福音書15:21~28にもあります。これらの記事は多くの人々が移住してきており、また彼らがユダヤ人の信仰についてもよく知っていたということを物語っています。

[2] 創世記15:5~6 創世記13章にロトと別れた後にも神はアブラハムに現れ、同様のことを語っていますが、15章は「空の星のように」であるのに13章では「大地の砂粒のように」となっています。これは写本が異なるによることです。

[3] 創世記1:9以下

[4]「煙を吐く炉と燃える松明」はヤーウエの顕現と臨在の象徴です。

[5] 口語訳聖書では「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように。」と主イエスの驚きをもって「オー女よ」と語られています。こういうニュアンスは是非訳出したいものです。

[6] 彼はユダヤ人ではありましたが、ダビデの家系ではありませんでした。サムエル記下7:11、12節に主ご自身が預言者ナタンを通してダビデに約束した言葉が記されています。「主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者が私の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」つまりヘロデ大王は正当な後継者とは見なされていませんでした。

[7] 英語(RSV)ではby no meansという言葉が用いられています。口語訳では「断じてそうではない」新共同訳では「決してそうではない」と訳されています。ローマ書3:6、31参照。

[8] RSVand you , O Bethlehem, in the land of Judah, are by no means least among the rulers of judah ; for from you shall come a ruler who will govern my people  Israel

[9] マタイ福音書7:24~27

[10] ローマ人への手紙15:3

[11] マタイ福音書の最終行28:20

[12] マタイ福音書28:20 マタイ福音書の最後の言葉です。マタイ福音書は最初から最後までインマヌエル(神、我らと共にいます)というテーマで貫かれています。

[13] マタイ福音書6:21 for where your treasure is , there will be your heart be also.

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