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受胎告知(2021年12月5日 待降節礼拝)

日本キリスト教団昭島教会〔東京都昭島市中神町1232-13)

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

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「受胎告知」

ルカによる福音書1章26~38節

関口 康

「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』そこで、天使は去って行った。」

今日から、礼拝の司会を牧師が行う緊急事態方式を終了し、本来の方式に戻します。現時点では日本国内は爆発的感染と言えるような状況にないからです。またどうなるか分からないというのが正直な気持ちであり、みなさんも同じお気持ちでしょう。しかし、それでも「できることをできるうちにする」という姿勢が大事です。

礼拝の司会の件は、それをだれがすべきかという議論が目的ではなく、礼拝当番表を作成するのを中止することが目的でした。教会のすべての奉仕は自発的なものでなければならず、義務や責任という観点からうんぬんされるべきではありません。しかし、当番表があると礼拝の出席や奉仕が強制的なものと感じられ、感染症対策の観点から外出を控えたくても義務感が生じるので、当番表の作成自体をストップしましょうと役員会で決めた次第です。

しかし礼拝の司会をすべて牧師が行う方式は長く続けるべきではありません。礼拝の雰囲気がどうしても一本調子になります。慣れるとそのほうが良くなるかもしれませんが、まさにそれが危険です。

学校も似ている面があります。感染症対策の観点から校舎での対面授業をすべて取りやめて、インターネットを活用したリモート授業に切り替える措置をとった学校が多くありました。それにみんなが慣れてくると、もうずっとそのほうがいいという空気になりそうな勢いを感じました。しかし、リモート授業は本来の形ではなく、緊急措置です。対面授業とリモート授業は全く別のものです。良し悪しの問題ではなく、異なるものを同一視してはいけません。

教会の礼拝も、牧師の声だけが響く形でなく、教会のみんなで作り上げていく形が、昭島教会の本来の礼拝です。異なるものを同一視してはいけないという観点を忘れずにいましょう。再び状況が悪化してきたら、いつでも緊急自体方式に移行するという柔軟な姿勢でいたいと願います。

さて、今日は待降節第2主日です。クリスマス礼拝が再来週の12月19日に迫りました。会社の方々は年末年始は忙しいでしょうし、学校は期末試験の最中です。受験生は大詰め段階です。そのような中で迎えるクリスマス礼拝ですので、とにかく安心できる、ほっとする、慰められる、ほめてもらえる礼拝になりますようにと願うばかりです。

先ほど司会者に朗読していただいた聖書の箇所に記されていました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。天使ガブリエルがマリアに告げた言葉です。

1989年版の改定英語訳聖書(The Revised English Bible)で「おめでとう」は“Greetings”と訳されています。英語でメールを書く仕事をしておられる方がおられると思います。特に公式のメールを書くとき、毎回のようにGreetingsと、冒頭か末尾に書くならわしがあることを私も知っています。その意味は「おめでとう」でもあり「こんにちは」でもあります。

もちろん、この「おめでとう」という天使ガブリエルの言葉を聞いた直後のマリアの反応が、ただ戸惑いでしかなく、もっとはっきりいえば恐怖でしかなく、あまりに大きな精神的ダメージを受けて立ち直れなくなりそうなほどであったことをわたしたちは知っています。

結婚する前のマリアであったということもさることながら、天使ガブリエルの言葉によると、生まれる子どもは「偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(32~33節)というのですから、マリアに求められたのが王の母になる覚悟と準備であるのは間違いありません。

それがマリアにとって「おめでたい」話だったとは思えません。当時の状況を考えると、天使ガブリエルの言葉を聞いたマリアが何の驚きもためらいもなく「了解です」と反応したとしたら、皮肉な言い方になりますが、マリアは相当おめでたい人です。

なぜそう言えるかといえば、当時の状況を考えれば、「ダビデの王座」や「ヤコブの家の支配」は、あのヘロデ王が継承しているとみなされていた時代です。地域差別や職業差別をする考えは、私にはありません。しかし、ナザレというガリラヤの町で大工を営むヨセフといいなずけの関係にあったマリアが、自分から生まれる子どもに王位継承権があると本気で信じたのだとすれば、マリア自身が自覚しなければならなかったのは、自分から生まれる子どもは、現政権を維持するために生まれるのではなく、それを根本的に破壊し、くつがえし、新しい国にするほどの革命家の母になることの覚悟と準備であったとしか言いようがありません。

しかし、ルカによる福音書に記されているマリアの反応は、今申し上げた方向ではなく、私はまだ結婚していないのにどうして子どもが生まれるのだろうとか、そちらの方向に膨らんでいるのは、いかにも幼稚です。そんなことはどうでもいいとは申しません。しかし、本気で政権交代をめざす子どもの親になりなさいと、まるでそう言われたかのような天使の声に対して、マリアがそのとき何を考え、どう応えるべきだったかは、別の問題に属する気がします。

しかし、かなり混乱しながらも、最終的にマリアが出した結論と答えは素晴らしいものです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)とマリアは天使ガブリエルに答えました。

先ほどご紹介した1989年版の改定英語訳聖書(REB)には、次のように訳されています。“I am the Lord’s servant. May it be as you have said”.この英語は理解が難しいかもしれません。もっと前の1946年版の改定標準訳聖書(Revised Standard Version)では、次のように訳されています。“I am the handmaid of the Lord; Let it be to me according to your word”.

そうです、ビートルズです。レット・イット・ビーは「なるがままに」とか「放っておけ」などと訳されます。ビートルズの場合は、困ったときにマリアが来てくれて「レット・イット・ビー」と言ってくれる歌です。しかし、改定標準訳聖書(RSV)に従えば、「レット・イット・ビー」は、マリアが天使ガブリエルに答えた言葉です。

しかし、それは「どうにでもなれ」「そんなの知るか」という自己放棄ではなく、「神の言葉がこの私の存在において実現しますように」という祈りです。「私は一切関わりたくありませんが、神の言葉は実現しますように」という祈りでもありません。「私をどのようにでもお用いください。私はあなたに服従いたします」という神への信頼と服従の表明であり、態度決定です。

わたしたちはどうだろう、私はどうだろうと、何度も自分に問いかける必要がありそうです。

(2021年12月5日 待降節礼拝)

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