スキップしてメイン コンテンツに移動

信仰と決断(2021年11月14日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 474番 わが身の望みは 奏楽・長井志保乃さん、字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3594号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

「信仰と決断」

創世記13章8~18節

関口 康

「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。」

先々週、先週、そして今日と、3回続けて旧約聖書の創世記を開いています。日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に従っています。

この時期に旧約聖書の学びをするのは、クリスマス礼拝が近づいていることと関係あります。新約聖書とキリスト教会の視点から言うと、わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになったことには旧約聖書の神の約束が実現したという意味があるからです。

今日の箇所の登場人物も、先週と同じアブラハムです。「信仰の父」と呼ばれることがある存在です。イスラエル民族の初代族長です。アブラハムが旧約聖書で初めて登場するのは創世記11章27節です。

それはアブラハムの父の名がテラと言い、そのテラの系図の中にアブラハムの名前が出てくる箇所です。ただし、そこに記されているのは「アブラム」という名前です。「テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれた」と書いてあるとおりです。

この「アブラム」がその後「アブラハム」と名前を変える場面も、創世記の中にしっかり記されています。17章5節に神さまの言葉として「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである」と書かれているとおりです。

この改名にはもちろん意味があります。「アブラム」という名前の意味は「偉大な父」であるのに対し、「アブラハム」の意味は「多くの民の父」です。

このアブラハムが「イスラエル民族の初代族長である」と先ほど言いましたが、「イスラエル」という呼び名はアブラハムの頃にはまだなく、この名前が登場するのは創世記32章29節です。アブラハムの孫の三代目族長ヤコブに(おそらく)神が「お前の名はもうヤコブではなく、これからイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」とお話しになったことに由来します。

しかし、だからといってイスラエル民族がヤコブから始まったわけではありません。初代族長はアブラハム、二代目はアブラハムの長男のイサクです。ヤコブは三代目です。このようなことはすべて創世記、ひいては旧約聖書の中に記されています。

しかし、イスラエル民族の最初の出発点のアブラハムは、まだアブラムだったころ、妻サライ(創世記17章15節以降は「サラ」と改名)、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、父テラと共に生活していたハランの地で加わった人々を連れて、カナン地方に向けて旅をはじめました。そのときは「民族」ではなく、ひとつの「家族」でした。

「アブラムはハランを出発したとき75歳であった」(創世記12章4節)とも書かれています。亡くなった年齢は「175歳」だったことが創世記25章7節で明らかにされています。今の私たちと同じ年齢の数え方なのかそうではないのかを判断する根拠を、私は勉強不足で知りませんが、「アブラハムは長寿を全うした」(創世記25章8節)とは書かれていますので、「長寿」であるという認識はあったと思われます。

しかし、しかし、と何度も話を引き戻さなくてはなりません。今日開いている箇所に記されているアブラハムの姿も、先週の箇所の彼の姿も、「偉大な父」あるいは「多くの民の父」になっていく前の、むしろ孤独で小さな存在であった頃の彼であるということを言わなくてはなりません。

そして、このようなことを学びながらわたしたちが考えるべきことは、教会のことです。聖書の時代の族長物語についての知識を得ることも大事です。しかし、単なる知識に終始するだけだと「だからどうした」という疑問がわいてきます。

むしろ大切なのは、アブラハム自身にせよ、その後のイスラエル民族のあり方にせよ、わたしたち自身の姿、教会の姿と重ね合わせて読んでいくことで、わたしたちのあり方、教会のあり方を考えることです。

アブラハムも最初は、実家を飛び出して、むしろ孤立した夫婦と甥と一緒に働く人だけだった。そこから一大民族になるまで相当の時間がかかったということを学ぶべきです。教会も同じです。教会の規模が小さい、人が少ないといろいろ言いたくなるのも分かりますが、規模が大きくなるまでに世代を重ねて行かなくてはなりません。

しかし、まだ今日の箇所である創世記13章に書かれていることには、触れていません。やっと前提の話をし終えたところです。今日の箇所に記されているのは、アブラハムとサラの夫婦と、甥のロトが別れて、その後は別の道を進むことにした、その決断の場面です。

なぜ別れることになったかは13章5節以下に記されています。「アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた」が、「その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた」など、その経緯が縷々明らかにされています。

このままの状態が続くとけんかになると考えたアブラハムがロトに提案したのが、別々の道を進んでいくことだったというわけです。「わたしたちは親類どうしだ。わたしたちとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」(9節)とアブラハムのほうから提案しました。

これが意味することは、アブラハムの側が譲歩したということです。右に行くか左に行くかの選択の優先権が私のほうにあるとアブラハムが主張せず、むしろロトの側に優先権を手渡したということです。こういうところにアブラハムの偉大さを私は感じます。

ロトが選んだのは、「ヨルダン川流域の低地一帯」で、「主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた」(10節)ほうでしたが、そちらに悪名高き滅びの町「ソドムとゴモラ」があったことが、後で分かります。

アブラハムに残されたのは、ヨルダンの低地と比較すると高く、牧畜に適さず、厳しい環境の「カナン地方」でした。そのカナン地方に数百年後、イスラエル王国が築かれます。

歴史の分かれ目に、そこに立ち会う人々の信仰と決断が問われます。決して悪い意味ではなく、むしろ大いに良い意味で「人の思いが働く」のです。人間が何もしないで手をこまねいたままで歴史が勝手に動くわけではありません。

教会も同じです。わたしたちの信仰と決断が、明日の教会、未来の教会を作り出すのです。

(2021年11月14日 主日礼拝)

このブログの人気の投稿

十字架のキリスト(2023年4月2日 棕櫚の主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 300番 十字架のもとに 週報ダウンロード 宣教ダウンロード 「十字架のキリスト」 ルカによる福音書23章32~49節 関口 康 「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」 今日の聖書箇所についての説教は、 昨年11月20日の主日礼拝 でしたばかりです。4か月しか経っていません。「また同じ箇所か」と思われる方がおられるかもしれません。 私はそのことを忘れて、今日この箇所を選んだわけではありません。受難節と復活節が毎年巡って来ることは分かっていますので、そのとき改めて取り上げようと考え、 昨年11月20日の礼拝 では、深く立ち入らないで残した箇所があります。 それはゴルゴタの丘にイエスさまと2人の犯罪人がはりつけにされた「3本の十字架」が立てられたことについてです。そのことをすべての福音書が記しています。「犯罪人たち」(κακούργοι)と記しているのは、ルカ(23章32節、33節、39節)だけです。マタイ(27章38節)とマルコ(15章27節)は「強盗たち」(λησταί, ληστάς)。ヨハネ(19章18節)は「二人」(δύο)と記しているだけです。 そして、ルカによる福音書には3人とも十字架にはりつけにされた状態のままの、イエスさまと2人の犯罪人の対話が記されていますが、他の福音書にはそのようなことは何も記されていません。その対話の内容を知ることができるのは、今日開いている箇所だけです。 対話の内容はわたしたちが繰り返し学んできたとおりです。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ』」(39節)。 「自分を救え」は英語でセーブ・ユアセルフです。今日の箇所に3回繰り返されます。最初はユダヤ最高法院の議員たち(35節)。2度目はローマ軍の兵士たち(37節)。3度目がこの犯罪人です(39節)。 「世界を救え」はセーブ・ザ・ワールド、「子どもたちを救え」をセーブ・ザ・チルドレン。それと同じ言い方ですが、イエスさまに向けられた言葉は罵倒と嘲笑です。 あなたは自称メシアだろう。それなのに惨めだね。あなたは世界を救えない。ユダヤ人も救えない。異邦人も救えない。せめて自分ぐらい救

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で