スキップしてメイン コンテンツに移動

神、我らと共にいます(2021年11月28日 待降節礼拝)

宣教「神、我らと共にいます」 秋場治憲(あきば はるのり)兄
讃美歌21 280番 馬槽のなかに 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3596号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

「神、我らと共にいます」

マタイによる福音書1章18~25節

昭島教会 秋場治憲兄

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

今日はアドベント第1主日、アドベントの季節に入って迎える最初の聖日ということになります。では、そもそもアドベントとはいったい何なのだろうか、そういう疑問がわいてきます。アドベントというのはラテン語のadvenio(アドベニオー)という言葉に由来しています。これは「近づく」「到着する」「やって来る」という意味の動詞です。Ad というのは英語のtoに当たる言葉で~の方へ、~に向かってという接頭語です。これにvenio という「やって来る」という動詞がつながった形です。ではいったい何が何に向かってやって来るのか、ということになります。聖書は神の子が私たち一人一人を目指してやって来る、やって来たのだ、と宣言しているのです。

私たちはよく神とは何であるのか、とよく考える。哲学者たちも考える。では聖書は何と言っているのか。聖書は「神は愛である 」と証言しています。愛というのは一人では成立しません。そこには必ず「愛する者」と「愛される者」が大前提として含まれています。この関係から愛を切り離して、神だけを捉えようとするのが哲学であり思弁 と言われるものです。私たちはこの哲学的な思弁に引き込まれないように、気を付けなければなりません。神を客体化して眺めることはあっても、その神によって慰められたり、励まされることはない。キリスト教の神、聖書の神は「愛である」とは、必ずそこには相手がいるということです。そして愛するということは、その相手に連帯化するということ、その相手の立場に立つということです。「人間を愛する神」と「神によって愛される人間」が大前提として含まれているということです。

アダム以来罪の縄目に打ちひしがれている者たちを、神の子の義の衣をもって覆い、傷なき者、全き者として神の国に迎え入れるために、神の子が遣わされた。この神の子がやって来る、やって来たというのです。そしてマタイはこの神の子が旧約聖書の預言に従って、アブラハムの子、ダビデの子として、一人の乙女から誕生したと伝えています。

今日のテキストは「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」という文章で始まります。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」

さてこれは大変なこと。15、6歳の少女が、ある日突然妊娠していることが分かったというのです。現在の日本においてであっても、これは周辺を巻き込んだ大騒動になってしまいます。二千年前のユダヤの地においては、更に大変なことでした。旧約聖書の申命記に次のように記されていたからです。「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。 」と決められていたからです。マリアが妊娠していることが公になれば、彼女は間違いなく<石打ちの刑>に処せられる。

しかしマタイ福音書のマリアは、一言も発しない。驚きの言葉一つ発しない。夫ヨセフも同様に一言も発することはない。

マタイ福音書の降誕物語は、ただ淡々と粛々と神の計画が、遂行されていく様を私たちに伝えています。ここには人間的な何かが介入することを許さない、神の独占的な支配が全体を覆っています。

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」

私はここを読んでいて、いつも不思議に思っていたことがある。マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに縁を切ろうとしたヨセフの正しさとはいったい何なのだろうか、という疑問です。

もしヨセフが当時の律法の基準、規範に従った正しい人であったなら、先ほど読んだ申命記の言葉に従って、マリアを告発することが正しい人として為すべきことであったはずです。正しい人ヨセフとひそかに縁を切ろうとしたヨセフはつながらないのです。ヨセフは今や律法の基準に従えば、正しくない人になることを決心しているのです。

もう少し詳しく見てみようと思い、英語の口語訳聖書ともいわれるRSV を開いてみました。中学生レベルのとても易しい英語です。

her husband Joseph, being a just man, and unwilling to put her to shame, resolved to divorce her quietly.  

私はこの英語の文章をノートに書き出して、しばし眺めてみた。ギリシャ語の原文も書き出してみた。そして驚いた。英語のand にもギリシャ語のκαι(カイ)にも 意外・対照的なことを述べる場合に使われて、「しかし」、「それにもかかわらず」と訳されることを思い出した 。

Being(現在分詞であった) a just(ジャスト 正しい) man(マン 人・男),  and

Δικαιος(ディカイオス 正しい)ων(オーン 現在分詞であった) και

ここでand、 και を「それにもかかわらず」、「それなのに」と訳したらどうなるか。ここには新しい世界が待っていました。もしここを口語訳や新共同訳のように「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と訳すと、ヨセフは正しい人だったから正しい決断をしたということになり、ここには何の苦悩もなかったかのようです。しかしここを「夫ヨセフは正しい人だったが(それにもかかわらず、それだのに)、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と訳してみると、正しい人、律法の人としてのヨセフが、律法の基準、規範に従えば、正しくない人に向かって舵を切る決断をした姿が浮き彫りにされてくるのです。わずかに「ので」と順接に訳すか、「が」と逆接に訳すかで、ここに大きな違いが生じるのです。ヨセフの苦悩は、今目の前にいる愛するマリア一人救い得ない自分の正しさとはいったい何なのか。律法の正しさが見えなくなり、それまで自分が信じて生きてきた土台が音をたてて崩れる。その中でヨセフは憐みの人、信仰の人としてぎりぎりの決断をするのです。これは後に姦淫の女を前にした時の主イエスと、同じ状況ではないか。ヨセフも主イエスもホセア書の「私が求めるのは憐みであって、いけにえではない。 」という言葉を思い出していたかもしれない。ヨセフは後に主イエスが「私もあなたを罰しない」という言葉の先駆けになっていると読むこともできる。

私達はクリスマスの物語の中で、ヨセフという人を付録のように扱ってはいないだろうか。マリアの命も御子イエスの命も、神の計画そのものも、一人ヨセフの決断にかかっていたことを覚えておくべきだと思います。

しかしヨセフはひそかにマリアを離縁することを決心したとはいえ、彼の心は揺れ動く。いずれマリアのお腹は大きくなり、周囲の人々の目につくようになる。当時の状況からして子を抱えたやもめが一人で生きていくことは、困難を極めることでしょう。旧約聖書には刈入れをした後の落穂は、残しておくようにという規定があるくらいです。ボアズの好意によりルツと姑ナオミは、沢山の落ち穂を拾うことができ、急場をしのぐことができたとルツ記に記されています。またヨセフに対してもマリアを孕ませた上で離縁した不誠実な男ということになる。いずれもヨセフが望むことではない。ヨセフは律法の正しさに不安を覚える。そしてマリアを生かす道、憐みの道を探った。

神様は時として私達に残酷ともいえるような事を命じられる。目の前に乗り越えるべくもない大きな山が立ちはだかる。いったいどうしてか。どうして自分なのか、何もかも投げ出したくなることがある。誰しもこういう体験が、一度や二度はあるものです。戸惑い、迷い、悩み、葛藤する。祈る以外に術はない。心が折れそうになっていたヨセフに、主の使いが夢に現れた。

「『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

「ダビデの子」が強調されています。バビロン捕囚、ギリシャのアレクサンダー大王、そしてローマ帝国に次々と支配され、蹂躙され、すでに国家の体をなさなくなっていたイスラエルにとって、残された希望はサウル王の後を継いで王となり、北のイスラエル、南のユダを統一し、北はレバノン山脈から、南部の砂漠地帯まで、ヨルダン川東西を幅広くその領土とし、外交、通商も活発になり、繁栄を極めたダビデ王の再来としてのメシア(救い主)を待ち望む以外になかった。それは主が預言者ナタンを通して、ダビデに約束したことでもありました。それは「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠る時、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者が私の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。 」それ故に「ダビデの子」なのです。

またここには何故イエスという名前がつけられたのかという理由が述べられています。イエスというのは旧約聖書のヘブル語ではヨシュア 、モーセの後を継いで約束の地に入った人です。出エジプトの完成者ということも出来ます。その人の名前がつけられ、「この子は自分の民を罪から救うことになるからである」つまり第二のモーセ(ヨシュア)として、イエス(ヨシュア)という名前がつけられたというのです。

またヨセフという名前もヤコブとラケルの間に生まれた子で、兄弟たちの妬みをかってエジプトへ売られていき、そこでファラオの夢を解き明かし、エジプトを飢饉から救い、ファラオの信認を受けて大臣に任命され、飢饉に苦しむヤコブ 一家の救出に決定的な役割を果たした人物です。創世記の物語と同じパターン(構図)が設定されています。是非このアドベントの季節に、創世記を読み直してみて下さい。

主の天使がヨセフにだけは、いつも夢で現れるのもうなずけます。ヨセフとは夢を解する人。ヨセフによって救われたイスラエルの家族が、モーセに率いられて、そのバトンを受け取ったヨシュアに導かれて約束の地に入るという構図がここにも出来上がっているのです。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる。」という意味である。

この引用句はイザヤ書7:14からの引用です。すでにご存じかもしれませんが、イザヤ書の「おとめ」は「アルマ―」というヘブル語で、必ずしも「処女」を意味しません。「若い女」「結婚適齢期の女」という意味です。「処女」を意味するヘブル語は別に「ベスラー」という言葉があるということです。ではマタイは何故処女を意味する「パルテノス」というギリシャ語をもちいたのでしょうか。

これは当時広く用いられていた七十人訳ギリシャ語聖書に原因があると言われています。イスラエルの民はバビロン捕囚の頃から世界各地に離散していきました。初代の人たちはヘブル語を解しても、代を重ねるごとに日常語がギリシャ語で、徐々にヘブル語を解することができなくなってきました。今日のテキストの23節の「インマヌエル」が「神は我々と共におられる。」と訳されているのも、ヘブル語を解さないユダヤ人たちへの配慮です。こういう人々のために紀元前2世紀から1世紀にかけて、ヘブル語聖書がギリシャ語に翻訳されました。この七十人訳聖書が広く用いられるようになっていました。この聖書でイザヤ書7:14の「アルマー(若い女)」は「パルテノス(処女)」という言葉に置き換えて訳されました。マタイが所属していた教会はアンテオケの教会であったと言われています。パウロやバルナバがここを拠点として、異邦人伝道 に出かけています。また困窮するエルサレム教会を助けたこと 、この地でキリスト者が初めて「クリスチャン 」と呼ばれたと使徒言行録は伝えています。ローマ、アレクサンドリアに次ぐ第三の大都市であったことが報告されています。もちろんこの教会でも礼拝には、七十人訳聖書が用いられていました。マタイは処女降誕の信仰に立って、この七十人訳聖書から引用しているのです。

私たちは護教的立場に立って、これは間違いなく歴史的事実なのだと声を張り上げる必要はないし、またそんなことはあるはずがないと言って、距離を置くべきでもない。いずれも聖書の読み方としては、本筋をはずれています。これらの議論を踏まえた上で、神の御手が律法の人ヨセフに働き、憐みの人、信仰の人へと舵を切るヨセフの決断に向けて、強く、強く働いていたこと、そしてその同じ御手が私たち一人一人に向かって働いていることを深く心に刻み込むことこそアドベントの意味だと思うのです。

「ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」この言葉はヨセフに安堵と平安をもたらしたことでしょう。「インマヌエル、神我々と共におられる」という知らせを聞いたヨセフは、その不安と恐怖の中にくず折れそうになっているマリアをしっかりと引き受け、二人でイエスを生む決心をするのです。マリアはヨセフのこの決断に感謝したことでしょう。「何故だ」、「どうしてだ」「どうして自分が」という疑問に押しつぶされ、自暴自棄になるのではなく、その問いは横に置いといて自分の人生を受け入れ、自分の道を切り開こうとした時、神の御手が強く私たちに働きかけるのです。あきらめるのではなく、投げ出すのでもなく、今直面している問題を見据え、自分の進むべき道を切り開こうとしたこの二人こそ、博士たち、羊飼いたちに先んじて「神は我々と共におられる」というクリスマスの音信に感謝する者となったのです。あなたの罪は、失敗は、過ちは私が引き受けた。だから前を向いて進みなさい、というのです。私たちはいつまでも、汚れたおしめを取り換えてもらえないで泣いている赤子であってはならないというのです。

最後にマタイ福音書の最後を開いてみて下さい。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。 」

マタイ福音書はインマヌエルで始まり、インマヌエルで終わっています。私たちが神と共にではなく、神が私たちと共におられることを深く心に刻み、よき音づれに励まされながら、積極的に生きていく者でありたいと願うものです。

(2021年11月28日 待降節礼拝)

このブログの人気の投稿

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽の中に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「栄光は主にあれ」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (2023年8月27日 聖日礼拝)

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で