スキップしてメイン コンテンツに移動

異邦人の救い(2021年7月18日 主日礼拝)

昭島教会はJR青梅(おうめ)線「中神(なかがみ)」駅の北口から徒歩5分です

  
讃美歌21 460番 やさしき道しるべの 奏楽・長井志保乃さん


「異邦人の救い」

ローマの信徒への手紙9章19~28節

関口 康

「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」

「いいかげんにしてほしい」と、誰に言うでもなく、呟きたくなる「コロナ、コロナ、コロナ」の毎日です。この文脈であまり言いたくないことではありますが、今の状況が続けば続くほど、聖書の教えがわたしたちをますます苦しめる原因になるかもしれません。

なぜそうなるのかといえば、聖書の教えの基本が、わたしたちの神さまがただおひとりであり、天地万物が創造者なる神の作品であるという点にあるからです。もし聖書の教えが、良いことや楽しいことは神さまが与えてくださるものだけれど、悪いことや悲しいことは神さま以外の別の存在がもたらすものであるというものであれば、逃げ道ができますが、そうではありません。

もし創造者がおひとりであり、万物がそのおひとりの神がお造りになったものであるならば、世界はどうしてこんなにひどいのか、人生はどうしてこんなに苦しいのかを、途中の議論を全部省いて問いと答えだけをつないで言えば「神さまに原因がある」と言わざるをえなくなるのです。

責任問題を言おうとしているのではありません。誰の責任かという問題の答えは、罪を犯した人間にある、ということになるでしょうし、そういう方向に誘導されていくところがあります。結局「人間が悪い」と責められて、その人間の罪をイエス・キリストの十字架によって神さまが赦してくださり、神の憐れみのうちに生かされて生きる謙遜な人生を送ることがキリスト者たる者たちの目指すべき道である、ということで、だいたい話が終わります。

しかし、それはある意味で問題のすり替えです。原因の問題と、責任の問題は、別問題です。それは今日の聖書の箇所に、使徒パウロがいみじくも書いているとおりです。

「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と」(19節)とパウロが書いているのは責任の問題です。神が人を責めるとは、世界の悪と混乱の責任は人間にある、ということを意味します。しかし、「そんなふうにわたしたちに責任を問われても困ります」と、神さまに対して反論を企てる人の言葉が持ち出されていると考えることができます。

なぜ責任を問われても困るのか。そもそもこの世界を造ったのは神さまでしょう、なぜ神さまは悪と混乱の原因になるようなものをこの世界に造ったのですか、そんなものがそもそも世界に存在しなければ、悪も混乱もなかったでしょうに、と反論者が言おうとしているわけです。

しかし、それに対するパウロの答え方が乱暴と言えば乱暴です。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」(20節)と一刀両断です。「黙れ、文句を言うな」と言っているのと同じです。学校の先生が生徒から質問を受けたときにこういう答え方をしたら大問題になるでしょう。

「造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないものに用いる器に造る権限があるのではないか」(21節)とパウロが続けています。言い方を換えれば、先ほどから申し上げているとおり、責任の問題と原因の問題は区別しなければならない、ということです。

ごく分かりやすくたとえれば、ご本人の前で申し上げることをお詫びしなくてはなりませんが、石川先生と私の体型の違いの問題などを考えてくださると、すぐにご理解いただけるのではないでしょうか。石川先生はお若いころから今日に至るまでスマート。私はご覧のとおりです。

私が神さまに「どうしてこんな体型に私をお造りになったのでしょうか。私の責任ではないではありませんか」と言うと、神さまから「黙れ、文句を言うな」と叱られる流れです。「何をどのように造ろうとも焼き物師の勝手だろうが」という論法なので、納得が行かないも何もないわけです。原因は神さまにあると、はっきり言えるわけです。

しかし、造られた側が自分の造作やら何やらが気に入らなくて、他の人と比較してひがんだり、腹を立てたり、文句を言ったりするのは、創造者なる神に逆らうことを意味するので、それは罪であり、人間の責任だと言われることになります。つまり、原因は神さまにあるが、責任は人間にある、という一見矛盾しているようにも思えることが両立することになる、というわけです。ただし、この理屈に納得できない人は、「神に口答えするとは、あなたは何者か」と、まるで恫喝されているかのような言葉を聞かなくてならないことにもなります。

しかし、わたしたちを本当に悩ませ、苦しませる問題は、責任の問題のほうではなく、原因の問題ではないでしょうか。なぜ神はこのような世界を造られたのか、なぜ私はこのような存在に造られたのか。この問いは、神さまに責任をとってほしいと言いたいわけではないのです。ただ、どうしてこうなのかの理由を知りたいだけです。

これと同じ問いであるとあえて断言したいのは、イエスさまが十字架の上で絶叫されたと聖書に記されている「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という問いです。これはイエスさまが失敗者として失意と絶望のうちにあられたことを意味するわけではないと、石川先生がお話しくださったことを覚えています。私もそうだと思います。そうではなくイエスさまも原因、あるいは理由を問われたのだと思います。

そのことが悪いわけではないと私は申し上げたいのです。「どうしてこうなのか」という問いは、いくら問うても答えがない場合が多いです。だからといって「問うのをやめなさい。それは信仰的に未熟な人の問いである」などと言って制したり禁じたりする権限がだれにあるでしょうか。

コロナだけではありません。地震、津波、土石流、気候変動。すべてを人間の罪の責任にするのは簡単です。人災の面がないわけではない場合がありますし、政治批判や訴訟問題につなげていくこともできなくはありません。しかし「だれのせいなのか」という責任の問題と、「どうしてこうなのか」という原因の問題は別です。なぜ神はこのような世界とこのような人間をお造りになったのかを真剣に問う人を責めたりからかったりすべきではありません。たとえ答えが無くても、問い続けることを妨げてはなりません。そうでないかぎり、人間の心はおさまりません。

その問いを問うたうえで、世界にはさまざまな悩みや苦しみがあることを認めたうえで、その問題の解決と和解の道を求めていくことが大切です。ユダヤ人も異邦人も共に「神の憐れみの器」(24節)とされたことを互いに認め合い、イエス・キリストの体なる教会へと共に連なる同士、協力して生きていこうではないかと、パウロは今日の箇所で呼びかけているのだと理解できます。

(2021年7月18日 主日礼拝)

このブログの人気の投稿

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽の中に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「栄光は主にあれ」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (2023年8月27日 聖日礼拝)

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で