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見えるようになる(2022年7月24日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 402番 いともとうとき(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「見えるようになる」

マルコによる福音書8章22~26節

関口 康

「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった。」

今日の箇所のイエスさまは「ベトサイダ」(22節)におられます。地図によると、ベトサイダはガリラヤ湖の北端です。

パレスティナとは、北にガリラヤ湖、南に死海、両者をつなぐヨルダン川、そして西に地中海があるあたりを指します。イエスさまがお生まれになったベツレヘムは死海、そしてエルサレムに近い南側にあります。しかし、イエスさまが幼少期に過ごされたナザレや、イエスさまが宣教活動を開始されたカファルナウムは北のガリラヤ湖の近くです。

「都会か田舎か」という大雑把なくくりで言えば、エルサレムを中心とする南側は「都会」で、ガリラヤ湖側は「田舎」です。このようなことからいえば、イエスさまは、田舎育ちの人で、田舎伝道をなさった方だと、そのように説明することもできなくはありません。

そして、今日の箇所の出来事も「ベトサイダ」でのことだと書かれていますので、イエスさまの宣教活動の本拠地に近いあたりでの出来事であることが分かります。書かれていることによると、イエスさまと弟子たちがベトサイダに到着されたとき、人々がひとりの盲人を連れてきて、イエスさまに触れていただきたいと願いました。

「盲人」とは、目が不自由な人のことだと説明する以外にありません。それ以上のことは今日の箇所からは分かりません。生まれつき何も見ることができなかった人なのか、人生の途中までは見えていたけれども、だんだん見えなくなったのか。だんだん視力を失ったという場合、何らかの事故や病気で突然視力を失ったのか、それとも高齢になってきて自然に視力が衰えていったのか。そもそも全く見えないのか、少しは見えるのか。光を認識することができたのか、できなかったのか。そのようなことが分かるデータは提供されていません。

ここに書かれているのは、ただ「一人の盲人」ということだけです。このベトサイダでの出来事は、他の3つの福音書には出てきません。マルコによる福音書だけが記していることですので、他と比較することができません。そのことはつまり、この人の目のイエスさまに出会う前までの状態がどのようなものだったか、どの程度見えなかったかについて想像力を膨らませて考えることは可能であるということになります。

そうすることは今日のテキストによって禁じられてもいません。「一人の盲人」と書かれているだけですので、ふたり以上ではなかったことと、とにかく「盲人」と呼びうる程度の目の障がいを持つ人だったということだけが分かります。言葉が多い、説明が詳しいというのは、人間ならだれでもする、自分の想像力を勝手にどんどん膨らませていくことを禁じ、「そうではなく、こうである」と想像力の範囲を限定することを事実上意味します。しかし、今日の箇所でそのことはなされていませんので、勝手な想像を膨らませることは可能だということになります。

ですから、今日の箇所をわたしたちが読む場合、何通りでも考えうる可能性の中でわたしたちにとって受け入れやすい選択肢を選ぶことができると言えます。私はそれで構わないと考えます。どの選択肢が最も受け入れやすいかは、人それぞれの違いがあるでしょう。この箇所を読む読者自身の経験や体験に引き寄せて読むことも可能ですし、大事なことでもあります。なぜ「大事」なのかといえば、この「一人の盲人」は私によく似ている、私自身かもしれないと、この人のことを身近に感じることができ、親近感を抱くことができれば、それが最もよいことだからです。

ここでいきなり私の話をさせていただきます。私の目の話です。小学生のころ、「仮性近視」という病名をつけられたことがあります。右目と左目の視力が極端に違いました。それをきっかけに私の親が考えたのは家の中からテレビを追い出すことでした。もともとテレビがあったのですが、私が観すぎのところがあったようで、それで目が悪くなったと、本当にそうなのかどうかは分かりませんが、とにかく親がテレビを撤去しました。それ以来、私が高校を卒業するまで我が家にテレビはありませんでした。

それ以後はむしろ、よく見える目になりました。「見えない」という意味が分からないと思うほどよく見えました。眼鏡をかけるようになったのは30歳からです。「一生はずせない」と言われました。実は眼鏡なしでもよく見えるのですが、乱視になりました。眼鏡を外したままで3時間も過ごせば目・肩・背中・腰が痛みはじめます。いまかけている眼鏡は乱視矯正用です。

しかし、それだけでなく、次第に老眼です。「見えない」というほどではありませんが、「よく見えない」ことが増えてきました。

私の話はこれで終わります。どこにでもある、普通の話です。私が申し上げたいのは「見える」とか「見えない」というのは、実に多種多様な可能性があるということです。「目の前にあるのに見えていない」ものは、わたしたちにはいくらでもあります。その時々の主観的な興味や関心との関係で見えたり見えなかったりするのも、わたしたちの目です。聖書を開いても関心がなければ、ただの字の羅列です。

今日の箇所の「盲人」の目がどのような症状だったかは分かりません。比較的受け入れやすいと私に思えるのは、もともとはよく見える目の持ち主だったが、中途で失明された可能性です。失明といっても、全く光を認識できないほどではないし、もしかしたらある程度の何かは見える。ものの動きも分かる。もともと見えていたので、今ははっきり見えなくても想像力を働かせることができる。そういう「盲人」だったのではないかということです。その可能性を排除しなければならないデータがありません。

イエスさまはその人の目を見えるようにしてくださいました。何をなさったかは、この箇所に書かれているとおりです。「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何が見えるか』とお尋ねになった」(23節)というのです。ひとつの言い方をすれば、手をつないで一緒に散歩なさったということです。「唾をつける」のは汚いとか、効き目があるのかとか思われるかもしれませんが、キスの一種だと考えてよいはずです。

つまり、イエスさまがなさったことをわたしたちに理解しやすい言葉で言い換えれば、一緒に散歩してくださる友達になってくださり、キスするほど愛してくださったというのに最も近いと、私には思えます。このように理解する可能性を排除する根拠はありません。

この人は視力を失って以来、寂しい毎日を過ごしていたのではないでしょうか。心がふさぎ、周囲で起こる出来事への関心を失い、喜びも感動も失って、孤立していたのではないでしょうか。

その人が最も求めていたものを、イエスさまがくださいました。それは愛と友情です。それが与えられたとき、周囲の人と世界に対する関心が呼び戻され、「見えるようになった」のです。

(2022年7月24日 聖日礼拝)

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