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共に生きる生活(2021年1月1日 元旦礼拝)

 


詩編133編1~3節

関口 康

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

元旦礼拝の説教のタイトルが「共に生きる生活」で、その聖書の箇所が旧約聖書の詩編33編であるのを見るだけですぐにピンと来る方が、みなさんの中におられるでしょうか。

これは日本の教会で長く読まれ、今でも読まれている有名な本の題名です。その本の最初に記されているのが、先ほど朗読した旧約聖書詩編33編1節の「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」です。もっとも日本語版出版当時は新共同訳聖書ではなく口語訳聖書が用いられていました。

それは、20世紀ドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーの本です。その最も有名な一冊『共に生きる生活』です。

日本語版が2種類あります。ひとつは『交わりの生活』(岸千年訳、聖文舎、1960年)です。もうひとつは『ボンヘッファー選集』第6巻(新教出版社、1968年)に収録され、1975年に単行本化された『共に生きる生活』(森野善右衛門訳)です。

「場違いな話が始まった」と思われているかもしれませんが、ご安心ください。話の筋はちゃんとつなげます。元旦礼拝にふさわしい内容になります。

私がボンヘッファーの『共に生きる生活』を最初に読んだのは、東京都三鷹市の東京神学大学に高校卒業後ストレートで入学した1984年です。当時私は18歳でした。

それは本当に素晴らしい内容でした。最初私はひとりで読み、次に神学生仲間と共に読み、教会の青年会でも読み、ついに教会学校の生徒だった高校生と共に読みました。その高校生は現在日本キリスト教団出版局の看板雑誌『信徒の友』の編集長をしておられます。

しかし、昭島教会の前任担任教師の鈴木正三牧師は、私などが読みはじめるよりもはるか前に、ボンヘッファーを研究するという目的をもってハイデルベルク大学に留学された国際的なボンヘッファー研究者です。鈴木先生がそのような方であられたことを私が知ったのは、今からわずか2年半ほど前のことです。

私がいま申し上げていることで何が言いたいか。石川献之助牧師からボンヘッファーの話を伺ったことはありません。しかし鈴木正三牧師がボンヘッファーの国際的研究者であり、私も学生時代から夢中になって読んできたのがボンヘッファーの本であり、なかでも特に『共に生きる生活』です。

そのことがあるのでぜひ、昭島教会の皆さんにはボンヘッファーの名前を覚えていただき、『共に生きる生活』を読んでいただきたいということです。

しかし、私はこの元旦礼拝でボンヘッファーの話をこれ以上続けるつもりはありません。とくに伝記的な事柄については、話し始めると長くなりますので全く触れないでおきます。それよりも、今日の聖書の箇所の言葉を引用した直後にボンヘッファーが書いていることをご紹介したいと思いました。

それは次のとおりです。

「キリスト者にとって、彼がほかのキリスト者との交わりの中で生きることを許されているということは、決して自明なことではない」(森野善右衛門訳)。

もうひとつの訳のほうでもご紹介いたします。

「キリスト者がキリスト者同志で生活できるというようなことは、はじめからわかりきっていることではない」(岸千年訳)。

なぜそう言えるのか。ボンヘッファーの説明は次のとおりです。

「イエス・キリストは敵のただ中で生活された。最後には、すべての弟子たちがイエスを見棄てて逃げてしまった。イエスは十字架の上で悪をなす者たちや嘲る者たちに取り囲まれて、ただひとりであった。彼は神の敵たちに平和をもたらすために来られたのである。だからキリスト者も、修道院的な生活へと隠遁することなく、敵のただ中にあって生活する。そこにキリスト者は、その課題、その働きの場を持つのである」(森野善右衛門訳)。

これほど明快なキリスト者の自己理解を、私は他に知りません。これは100パーセント教会の話にしてしまって大丈夫です。教会はキリスト者が「共に生活する」場だからです。

そして、ボンヘッファーが言いたいのは、教会に集まるのは「当たり前のこと」ではないということです。

なぜ「当たり前でない」のかといえば、イエスさまの姿を考えるがよい。敵の中で生活し、弟子たちからも裏切られ、最後は十字架の上で、おひとりで死なれたではないか。そのようにしてイエスさまは神の敵に平和をもたらされたのだ、というわけです。

その点では私たちも同じです。私たちの周りも敵だらけ。だからといって私たちは、人里離れたところで隠遁生活をするわけでなく、社会のど真ん中でキリスト者として生活する。そのキリスト者同志が互いに集まることが「当たり前のこと」であるわけがない。

私は昭島教会の中でそのような理解を持っておられる方に出会ったことはありませんが、教会は「牧師のお話を聴きに来る講演会場」であるというようなことは全くありえません。あるいは逆に「運動を開始する前に参加者同士の利害関係を調整するために事前に協議しておく必要に応じるための会議室」が教会であるわけでもありません。

そのようなことではなく、教会のわたしたちは「共に生活する」のです。それは「決して自明なことではない」(森野善右衛門訳)、あるいは「初めから分かりきっているようなことではない」(岸千年訳)というのが、ボンヘッファーの言葉です。

この点は、石川献之助先生が繰り返し教えてこられたことだと私は理解しています。教会は「人と人との出会いと交わりの場」である。その点がおろそかにされるようなら、一切は空しい、という理解です。私も大賛成なので、教会をそのようなものとして守り抜いていくように願っています。

しかし、その願いを強く持つからこそ、今の新型コロナウィルス感染拡大状況は、教会にとって恐るべき事態であるという認識を、私も石川先生も持っています。ボンヘッファーに言わせると、キリスト者同志の交わりは「自明なものではない」からです。

「自明なものではない」とは、キリスト者同志を結び付けているのは神の力であるということを言えばそのとおりだが、だからといって「神が守ってくださるから大丈夫だ」ということだけで済まされることではなく、それよりもっと大事なこととして、自明ではないからこそ大切に守り抜く課題がわたしたちに課せられているわけでしょう。そのことが、決して忘れられてはなりません。

しかし、こういう話を「共生が大事です」というような一般的なスローガンにしてしまうのは、私は反対です。教会でしか決して味わうことができない特別なものがあります。それを言葉にするのは難しいですが、教会に行かないと落ち着かない、教会に行ってみるとそれが何かが分かる「何か」。

そしてボンヘッファーが次のようにも書いています。

「キリスト者がほかのキリスト者と顔と顔とを合わせて相見たいと願う時、そのことは、彼がなおあまりにも肉にあって歩んでいることとして信仰者としては恥ずべきことである、と感じる必要はない。人間はからだとして創造され、神の御子はわたしたちのために、からだをもってこの世に来られ、からだをもってよみがえられ、信仰者は礼典において主キリストのからだを受け、死人のよみがえりは、霊的・肉体的な神の被造物の完全な交わりをもたらすのである」(森野善右衛門訳)。

これと同じ理由です、石川先生も私も同じですが、あっという間に「インターネット礼拝にしましょう」という話になっていかない理由は。

今日お集まりくださったみなさんの中にも、「果たして今日私は本当に教会に来て元旦礼拝に出席してよかったのだろうか」ということが気になり、感じなくてよいほどの罪悪感を覚えておられる方がいるかもしれません。その気持ちも理由も私には分かります。

しかし、だからといって、今わたしたちが自分の体を持ち運んでみんなで集まって「対面で」礼拝をしていることと、そういうことを一切抜きにした「インターネット礼拝」が同じであるわけがありません。

このようなひとつひとつの問題を「ああでもない、こうでもない」と頭をひねりながら、心を悩ませながら過ごす1年になりそうです。

しかし、わたしたちは絶望しません。教会の存在が「当たり前」だったことは、いまだかつて一度もありません。教会の存在は神の恵みであり、奇跡です。その教会を大切に守り抜く。そのことをわたしたちは、今までしてきたように、これからも続けていくだけです。

(2021年1月1日、元旦礼拝)

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