スキップしてメイン コンテンツに移動

最初の弟子たち(2021年1月17日 各自自宅礼拝)


讃美歌21 404番 あまつましみず ピアノ・長井志保乃さん


週報(第3551・3552号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます



マタイによる福音書4章18~25節

関口 康

「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」

おはようございます。今日は今年度(2020年度)第2回目の「各自自宅礼拝」の2回目です。最初の「各自自宅礼拝」は昨年4月と5月に実施しました。

最初のときも不安が無かったわけではありません。私個人はそんなふうには考えませんでした、と言うのは逃げの一手を打っているようでずるい気がしますが、教会堂にみんなで集まる礼拝をせず、各自自宅で礼拝をすることにすると、みんなの心が教会から離れてしまうのではないかと。

しかし、そのように考えることはお互いの信仰を疑うことを意味しますので、失礼なことだと思います。また、私などが考えるのは、世界中を混乱に陥れている感染症の問題に教会がまるで無関心であるかのような態度をとるならば、そのことこそ教会が多くの人から信頼を失う理由になるだろう、ということです。信頼を失った教会は、伝道を続けることができません。

何が正解であるかは分かりません。「各自自宅礼拝」をいつまで続けるのかは決めていません。1月3日日曜日に行った緊急役員会で私が申し上げたことは、通常礼拝を再開しても大丈夫だとみんなが納得できるような、なんらかの分かりやすいしるしがきっと示されるでしょう、ということです。それが何かは分かりませんけれども、きっと神さまがそれを示してくださるでしょう。

今日の聖書の箇所は、新約聖書5ページ、マタイによる福音書4章18節から22節までです。イエス・キリストが最初の弟子として、「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ」(18節)、また「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」(21節)の計4人を呼び寄せられた場面です。

この箇所は教会で繰り返し読まれ、語られてきましたので、改めて読むまでもないと言いたくなるほどです。しかし、何かわたしたちが《原点に立ち返る》必要があるときに役に立つ内容が記されていると思います。

このときペトロとアンデレは「湖で網を打っていた」(18節)最中でした。ヤコブとヨハネは「父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしている」(21節)最中でした。

つまり、彼らは仕事中でした。しかも過酷な肉体労働です。からだじゅうの筋肉がパンパンに膨れ上がるような仕事です。そして、漁師の仕事は魚をとることですから、それは当然、同じ村に住む人々や遠くから買いに来る人々にその魚を分けることで漁師自身が収入を得ることを意味します。漁師たち自身がその場で店を開いて魚を売りさばいていたかどうかは、私は知りません。しかし、その魚は人の食べ物ですから、人の命に直接かかわる仕事です。

ぜひ想像してみていただきたいです。そのような過酷で、自分たち自身の生活がかかっていて、しかも多くの人々の命と生活を支えることに直接かかわる仕事をしている最中の人たちに対して、客観的に見れば湖のほとりをぶらぶら歩いているだけのように見えたかもしれないイエスさまが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19節)と言い出す場面を。

わたしたちの毎日の生活の中でも同じような場面があると思います。会社勤めをしている方々の勤務時間中です。産まれたばかりの赤ちゃんがいるご家庭の方々の授乳中です。医師や看護師の方々にとっては深刻な病気にかかっている人の治療や看護をしている最中です。

漁師であった彼らにとって、漁をしている最中や、網の手入れをしている最中の状況は、それと全く同じです。どの人の仕事のほうが重要で、どの人の仕事は大したことがない、などと誰も言われたくないし、事実でもありません。みんなたいへんです。自分が生きることのためにも、人を生かすためにも、みんな必死で働いています。

今日の聖書の箇所に描かれているのは、まさにその場面です。自分が長年取り組んできた仕事に対する知識と経験と技能を駆使し、神経をとがらせ、全集中の作業に取り組んでいる最中に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という声が聞こえてきたというわけです。

2つの可能性が考えられます。そのひとつは、全く堪えられないほどひどいことを言われたと感じて激怒する可能性です。まるで自分が今していることを、頭ごなしにすべて否定されたかのようです。「漁師の仕事だなんていうようなそんなつまらない仕事は、今すぐやめて、人間をとる漁師になればいい」と言われてしまったと、彼らが感じ、そのとき虫の居所が悪ければ、イエスさまに食ってかかることになったかもしれません。

しかし、そうはなりませんでした。そうならなかった、ということは、いま申し上げた第一の可能性は、今ただちに否定してよいかもしれません。ただ、私が申し上げたいこと、みなさんに考えていただきたいことは、イエスさまが、あるいは弟子になった人たちが、漁師だなんていうつまらない仕事を、というように考えることがなかったとしても、この聖書の箇所を読むわたしたち自身がそのように考えてしまう可能性がありうる、ということです。

それは、世俗的な仕事よりも宗教的な働きのほうが上にある、というような感覚です。そんなつまらない、どうでもいいことはやめて、もっと高尚なことをしなさいと言っているのと事実上同じであるような考え方です。

わたしたちがよくよく考え、気を付けなければならないことだと私が思いますのは、いま申し上げたような感覚をわたしたちがほんの少しでも持っているようなら、伝道は不可能だということです。少なくともそれは、イエス・キリストの教会に属する者たちの考え方としてふさわしくないです。イエスさまが漁師たちのしていることを遠くから眺めて、そんなつまらない仕事よりも人間をとる漁師になるほうが高尚な生き方なので、わたしについて来なさい、というようなことをお考えになったでしょうか。ありえないです。

この場面で、4人の漁師がイエスさまの呼びかけを聞いて何を感じ、考えたので、ただちに従うことにしたのかは記されていません。しかし、彼らが腹を立てなかったことは大切な点ではないかと思います。彼らのプライドを傷つけるようなことを、イエスさまはおっしゃっていません。そういう意味ではないと、彼らの耳で聴いて分かったからこそ、4人の漁師はイエスさまに従うことができたのです。同じ言葉でも、字で読むだけでなく(心の)耳で聴くことが大事です。

第二の可能性は、「人間をとる漁師」の働きに就くことが今こそ求められていると、イエスさまの呼びかけを聞いた4人がはっきり理解できたということです。今は緊急事態であると分かったのです。人の心が弱っている。不安に陥っている。その人々を暗い海の中から希望の光へと引き上げる働きが、今こそ必要だと自覚できたので、彼らはイエスさまに従うことにしたのです。

今の私たちも同じです。毎日必死で働いている方々のために祈り、お役に立てることがあれば何でも喜んでお引き受けしたいと願うばかりです。

(2021年1月17日)


 
ご挨拶

このブログの人気の投稿

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽の中に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「栄光は主にあれ」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (2023年8月27日 聖日礼拝)

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で