スキップしてメイン コンテンツに移動

主の変容(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)

讃美歌21 311番 血潮したたる 奏楽・長井志保乃さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3559号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

マタイによる福音書17章1~13節

関口 康

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」

おはようございます。礼拝堂を開放しての礼拝を再開して3週目です。1都3県に対する政府の緊急事態宣言は、現時点の説明では来週日曜日まで続くようです。

しかしまた、たとえば私は今ほぼ毎日のように、電車やバスに乗って遠くの学校まで出かけ、外出先で食事をしています。対策をとっているかぎりはふだんと全く変わりません。それで怖いと私はもう思いません。

怖がる理由、外出しない理由、人と会わない理由を探し始めれば、事欠くことはありません。しかし、テレビや新聞の情報がすべてではありません。私が何を言おうと、誰の何の参考になるとも思いません。しかし、東京や神奈川の中心部分の状況を、自分の体と目で確かめています。

今の日本の政治を司る人々がもっと信頼できる人たちであれば、あの人々の言うとおりに動くことはやぶさかではありません。しかしそれが難しい状況です。これ以上は言わないでおきます。礼拝堂を閉鎖し続ける理由はもうないと私個人は考えています。

いま申し上げたことと、今日の聖書の箇所とが直接関係あるわけではありません。無理に関係づけたいとも思いません。しかし、この箇所に何が描かれているのか、聖書が何を言おうとしているのかを考えると、あながち全く無関係とも言いがたいところがあることをご理解いただけるのではないかと思えてきます。

イエスさまが、12人の弟子のうちの3人を特別にお選びになって、高い山に登られたというのです。その3人の弟子は、ペトロとヤコブとヨハネでした。「山頂で」とは書かれていませんが、登山の目的地が頂上でないということがありうるでしょうか。おそらく山頂かその付近でのことではないかと思われます。イエスさまのお姿が変わった、というのです。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。

姿が変わるというのは、何か違うものに化けることを言うのかもしれません。イエスさまが何か別の存在へとお化けになられたのかどうかは分かりません。山に登って、頂上付近で、太陽の光に照らされて、顔と服が輝いたというような話かどうかも分かりません。

もし何か途轍もないことが起こったのだとしても、それを目撃したのは、この箇所に書かれているとおりに考えれば、ペトロとヤコブとヨハネの3人だけです。この3人が何を見たのか、あるいは何を感じたのか。そのことをわたしたちは、今日の箇所を読んで想像するしかありません。

続きを読みます。高い山でイエスさまのお姿が変わりました。そして、そのイエスさまの前にモーセとエリヤが現れ、その3人の語り合いが始まったというのです。

モーセは紀元前13世紀の人です。イスラエル人を、彼らが奴隷状態にされていたエジプトから脱出させ、約束の地カナンまで連れて行った人です。そしてその旅の途中で「モーセの十戒」を定めたことで知られます。エリヤは紀元前9世紀の人です。イスラエル王国が南北に分裂した後の時代の北王国の預言者で、バアルと呼ばれる異教の神を信じる人たちと対決しました。

その人たちがイエスさまの前に現れた、というわけです。ですから、こういう話というのは、どうしてこういうことが起こりえようか、科学的にありえない、というふうにたとえば反応するのは、そもそも聖書の読み方自体を間違えているとしか言いようがないです。

このように言えばおそらく皆さんにご納得いただけるでありましょう範囲内の言葉で言い換えれば、高い山の上で、ペトロとヤコブとヨハネが見ていたのは、イエスさまがモーセやエリヤについて熱を込めて説教なさるお姿だったのではないかということです。

モーセとエリヤの共通点を強いて言うとすれば、今のわたしたちが「旧約聖書」と呼ぶ39巻の書物の中で最も有名な人たちであるということでしょう。イスラエル人を危機の中から助け出す働きをしたという意味で、イスラエルの人々にとっての国民的英雄として知られている存在です。

その人々のことをイエスさまが、弟子たちに熱を込めてお話しになったのではないでしょうか。イエスさまはモーセとも語り合い、エリヤとも語り合い、そしてその語り合いの中に弟子たちを招き入れられたのではないでしょうか。

「ペトロが口をはさんでイエスに言った」(4節)と記されています。「口をはさむ」と言うと、まるでペトロが邪魔しているかのようです。

イエスさまは何も、弟子たちを放ったらかしにして、モーセとエリヤとの語り合いだけに夢中になっておられたわけではないでしょう。そういうのは礼拝に集まっている人たちの心に届かなくてもお構いなしの、まるで独り言のような説教をしているのと同じでしょう。

説教をさえぎって何かを言えば「私語を慎んでください」と注意されるかもしれませんが、説教者と会衆が対話の関係になることが間違っているとは言えないでしょう。

脱線しかかっているので、話を元に戻します。ペトロがイエスさまにひとつの提案をしました。その内容をかいつまんで言えば、せっかく素晴らしい方々がお集まりなので、お3人のために、わたしがここに仮小屋を3つ建てさせていただきますが、いかがでしょうか、ということです。

そうすれば、いつまでも、何日でも、じっくりお話しできるでしょうというような意味かもしれません。やっぱりちょっと余計なことを言っているようでもあります。こういうことをもし本当にペトロが言ったのだとすれば、口が過ぎる感じがないわけではありません。

しかしまた、ペトロが言っていることをもう少し厳しく考えると、ただ口が過ぎるというだけではなく、事柄のとらえ方に間違いがあるとも思えてきます。それは、ペトロが、イエスさまとモーセとエリヤのために「仮小屋を3つ建てる」と言っているところです。

つまり、ペトロは、3者を同格に見ています。ペトロの側からすれば、イエスさまを信じているけれども、モーセもエリヤもイエスさまと同じ意味で信じている、信頼している、という意味を持ち始めるでしょう。

しかし、ペトロがそう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という声が聞こえ、彼らが目を上げると、モーセもエリヤもいなくなって、イエスさまだけが残っていたというのです。つまり、イエスさまの弟子はイエスさまの言葉に従って生きなさいと、彼らに明確な示しがあった、ということです。

このように考えると今日の箇所全体のテーマが分かってきます。イエスさまの弟子は誰に従うのか、です。イエス・キリストの教会は、イエス・キリストの言葉に従うのです。

現代の教会においては、全く通用しない話でしょうか。医学と科学と世論に従うだけならば、宗教は不要でしょう。そう思っている人たちは、もはや教会に足を向けることはないでしょう。

しかし、それでは済まないと思っている人たちが、教会に集まるのです。私もそうです。教会でなければならない意味があると思っているので、牧師を続けています。

すべての判断は各自に任されています。強制はありえません。それぞれ自分の確信に基づいて生きるべきです。

(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)

このブログの人気の投稿

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽の中に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「栄光は主にあれ」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (2023年8月27日 聖日礼拝)

天に栄光、地に平和(2023年12月24日 クリスマス礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 261番 もろびとこぞりて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「天に栄光、地に平和」 ルカによる福音書2章8~20節 関口 康 「『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」 クリスマスおめでとうございます! 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書2章8節から20節です。イエス・キリストがお生まれになったとき、野宿をしていたベツレヘムの羊飼いたちに主の天使が現われ、主の栄光がまわりを照らし、神の御心を告げた出来事が記されています。 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(10節)と、天使は言いました。 天使の名前は記されていません。ルカ福音書1章に登場するヨハネの誕生をその母エリサベトに告げ、また主イエスの降誕をその母マリアに告げた天使には「ガブリエル」という名前が明記されていますし、ガブリエル自身が「わたしはガブリエル」と自ら名乗っていますが(1章19節)、ベツレヘムの羊飼いたちに現われた天使の名前は明らかにされていません。同じ天使なのか別の天使なのかは分かりません。 なぜこのようなことに私が興味を持つのかと言えば、牧師だからです。牧師は天使ではありません。しかし、説教を通して神の御心を伝える役目を引き受けます。しかし、牧師はひとりではありません。世界にたくさんいます。日本にはたくさんいるとは言えませんが、1万人以上はいるはずです。神はおひとりですから、ご自分の口ですべての人にご自身の御心をお伝えになるなら、内容に食い違いが起こることはありえませんが、そうなさらずに、天使や使徒や預言者、そして教会の説教者たちを通してご自身の御心をお伝えになろうとなさるので、「あの牧師とこの牧師の言っていることが違う。聖書の解釈が違う。神の御心はどちらだろうか」と迷ったり混乱したりすることが、どうしても起こってしまいます。 もし同じひとりの天使ガブリエルが、エリサベトに

感謝の言葉(2024年2月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 436番 十字架の血に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「感謝の言葉」   フィリピの信徒への手紙4章10~20節  関口 康   「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」  今日朗読していただいたのは先々週2月11日にお話しする予定だった聖書箇所です。それは、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』で2月11日の朗読箇所として今日の箇所が定められていたからです。しかし、このたび2月末で私が昭島教会主任担任教師を辞任することになりましたので、そのような機会に今日の箇所についてお話しすることはふさわしいと感じていました。 ところが、全く予想できなかったことですが、1月半ばから私の左足が蜂窩織炎を患い、2月11日の礼拝も私は欠席し、秋場治憲先生に説教を交代していただきましたので、今日の箇所を取り上げる順序を変えました。昭島教会での最後の説教のテキストにすることにしました。 今日の箇所でパウロが取り上げているテーマは新共同訳聖書の小見出しのとおり「贈り物への感謝」です。パウロは「使徒」です。しかし、彼の任務はイエス・キリストの福音を宣べ伝えること、新しい教会を生み出すこと、そしてすでに生まれている教会を職務的な立場から霊的に養い育てることです。現代の教会で「牧師」がしていることと本質的に変わりません。なかでも「使徒」と「牧師」の共通点の大事なひとつは、教会員の献金でその活動と生活が支えられているという点です。 パウロが「使徒」であることとは別に「職業」を持っていたことは比較的よく知られています。根拠は使徒言行録18章1節以下です。パウロがギリシアのアテネからコリントに移り住んだときコリントに住んでいたアキラとプリスキラというキリスト者夫妻の家に住み、彼らと一緒にテント造りの仕事をしたことが記され、そこに「(パウロの)職業はテント造り」だった(同18章3節)と書かれているとおりです。現代の教会で「牧師たちも副業を持つべきだ」と言われるときの根拠にされがちです。 しかし、この点だけが強調して言われますと、それではいったい、パウロにとって、使徒にとって、そして現代の牧師たちにとって、説教と牧会は「職業ではない