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十字架への道(2021年3月28日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13)

讃美歌21 298番 ああ主は誰(た)がため 奏楽・長井志保乃さん

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「十字架への道」

マタイによる福音書27章32~56節

関口 康

「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。

今日の聖書の箇所に記されているのは、イエス・キリストが十字架上で処刑される場面です。想像するだけで体と心が凍ります。もっとも、書かれていること以上は分かりませんので、これから申し上げることの多くは私の想像です。

兵士たちがシモンという名のキレネ人にイエスの十字架を無理に担がせたとあるのは、その前にイエスさまが鞭で打たれたり葦の棒で頭を叩き続けられたりしていたために、重い十字架の木材を背負って歩くのが難しくなっていたからではないでしょうか。つまり、もう歩けなくなっているイエスさまを無理に歩かせるためです。イエスさまを助けたがっているわけではありません。

処刑場についたときに彼らがイエスさまに苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたのは、麻酔的な意味があったでしょう。アルコールの摂取が痛みの緩和になるかどうかは分かりません。しかしイエスさまはそれを拒否されました。すべての痛みをお引き受けになるためだったと解釈されることがありますが、それすら想像の域を超えません。

「彼らはイエスを十字架につけると」と淡々と事実だけが記されています。現代の作家のような人たちなら、もっと詳しく細かく描こうとするのではないでしょうか。イエスさまの手や足に釘を打つ槌音、痛みに悶えるイエスさまの表情や絶叫。そのようなことは一切記されていません。音も声も聞こえてこない、まるで一枚の絵画や写真を見ているかのようです。

しかしその一方で今日の箇所にしきりと描かれているのは、十字架につけられたイエスさまの周りにいる人たちの言葉や態度や表情です。イエスさまご自身が苦しくないはずがないのですが、そのことは描かれず、代わりにイエスさまの周りの人たちの様子が多く描かれています。

兵士たちがくじを引いてイエスさまの服を分け合う様子にしても、十字架につけられたイエスさまの頭の上に「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げる様子にしても、彼らが楽しそうに遊んでいたことを物語っています。すべて揶揄いであり、罵りです。

通りがかりの人たちのことも「頭をふりながらイエスをののしって言った」と記されています。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言う。「できないことをできるかのように言ったお前の恥を知れ」とでも言いそうです。

通りがかりの人たちは何を言っても構わないという意味ではありませんが、同じように祭司長たちが律法学者や長老たちと一緒にイエスさまを侮辱しているのは、いただけません。特にその人たちが「他人は救ったのに、自分は救えない」と言う。これはまずいです。

祭司長と律法学者と長老の共通点は、当時のユダヤ教団の指導者たちだったことです。宗教の責任者たちです。宗教が人を救うのかどうかは分かりませんというようなことを、私が言うべきではないかもしれません。しかし、ここに書いてあるとおりならば、彼らはイエスさまが他人を救ったことを認めています。彼らこそが本来なら人を救う働きをもっとしなければならなかったはずなのに、自分たちにできなかったことをイエスさまがしたことを、彼ら自身が認めています。

いや、認めているわけではない、「他人は救った」と彼らが言っているのは「自分は救えない」のほうを言いたいがための枕詞であるという読み方がありうるかもしれません。しかしとにかく彼らは、イエスさまが「他人を救った」と言いました。そうであるならば、宗教の責任者たちはイエスさまの功労をねぎらうべきではないでしょうか。侮辱ではなく。それができないのです。

そしてついにイエスさまが息を引き取る場面が描かれます。そのときには、イエスさまは大声で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。「痛いです」でも「苦しいです」でも「悲しいです」でもありません。神さまがわたしをお見捨てになった、それはどうしてですか、と言われました。

なぜイエスさまがそうおっしゃったのか、その意味は何かについては、もちろん完全に謎です。世界のだれひとり正解を知る人はいません。ただ、私が今日の箇所を改めて読みながら思うのは、イエスさまのこの絶望の叫びは、イエスさまご自身が十字架につけられたことを痛いとか苦しいとか悲しいとかいうことに対する絶望ではなく、宣教活動をどれほど行っても人間の態度が少しも改まらないことへの絶望のお気持ちだったのではないだろうか、ということです。

なぜそう思うのかの理由を申し上げる必要があるでしょう。それが先ほど申し上げたことです。この箇所にはイエスさまの表情がほとんど全く描かれていないのに対して、十字架につけられたイエスさまの周りにいた人たちの表情がしきりと描かれている、ということです。

言い方を換えれば、この箇所はイエスさまの側からイエスさまの周りの人たちの姿とその態度を見る、その目線で書かれているように読める、ということです。マタイはイエスさまではありませんので、実際にそうすることは不可能です。しかし、イエスさまの立場・イエスさまの目線で、人間の姿を見ようとすることは可能です。

そしてそれはマタイだけでなく、他の福音書記者だけでなく、わたしたちにも可能です。教会生活を長く続けてきた人たちや、牧師としての働きを長く続けてきた人たちがしょっちゅう絶望の言葉を口にするのを実際に聞きます。これほど苦労して教会生活を続け、あるいは牧師としての働きを続けてきたのに、世界は変わらない。ますます悪くなっている。どうなっているのかと。

しかし、「それでいいのだ」と思うことにしましょう、というのが今日の私の結論です。世界は立ちどころに変わったりはしません。人の心は私たちの思いどおりになりません。苦労して苦労して、苦しんで悩んで、繰り返し絶望しながら教会生活を続け、宣教を続けていく中で、世界は徐々に変わっていくでしょう。そう信じましょう。イエスさまが、何を言っても何をしても絶望的に変わらない人たちを十字架の上から見つめておられたように。しかしイエスさまの死と復活から2千年後の今は、当時と全く同じではありません。少しぐらいは変わったでしょう。

イエスさまが息を引き取られたとき神殿の垂れ幕が裂け、地震が起こり、墓が開いて多くの人が生き返るというようなとんでもない天変地異があり、それを見た人々が「本当にこの人は神の子だった」と言ったということが記されていますが、彼らこそ世界で初めて信仰告白した人々であると言えるかどうかは微妙です。そのときはそう思ったかもしれません。しかし「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のも「熱しやすいが冷めやすい」のも人間です。天変地異ごときで世界が変わるなら、だれも苦労しません。人の心が変わるのは、息の長い宣教によるほかはないのです。

「教会やめたい。牧師やめたい」と思うときには、今日の箇所を思い起こしましょう。イエスさまが苦しまれたことを心に刻みましょう。イエスさまは救い主です。しかし宣教の苦労の先輩でもあります。宣教に絶望するたびに「うんうん分かる分かる」とうなずいてくださるでしょう。

(2021年3月28日 日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)

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